スピリチュアルと科学について思う事

私はよくこちらのサイトで勉強をさせて頂いている。

 

http://takehisayuriko.tokyo/2018/10/02/post-3075/#comment-2110

 

こちらの記事のコメント欄で様々考える事があったので、記す。

 

スピリチュアル界隈の方々は、科学がお好きなようだ。

 

科学で証明された!ともよく言うようだが、科学はこの世の現象を見る一つの物差しに過ぎず、当たり前だが、万能ではない。

 

物事の一つの見方に過ぎないのだから、科学で証明されようと、科学で証明されていまいと、大した違いはないと思う。

 

ただの物差し、一つの切り口、見方。

 

本当に、それだけ。

 

科学で証明されたから価値があるのではない。科学で証明されているから素晴らしいのではない。

 

科学が証明するのは、その再現性の有無や高さに過ぎないと思う。

 

だから、科学で証明されたものは万人に「等しい価値」を与えるのである。

つまり、誰がやっても同じようになる、と言う事に価値があるのだと言う事。

 その証明に過ぎない。

 

その意味で、引き寄せの法則を科学するなどと言うのはヘソで茶を沸かすような話である。

引き寄せの法則を、科学出来るはずがないのだから。

 

なぜなら、科学とはあくまで現象の再現性であり、メカニズムの解明のことは指していないからである。

 

ケンブリッジ大学出版の科学的手法についてのGauchの著作では、科学の基本的な概念は、すべての実験結果が再現的である必要があり、他者によって間主観的に検証可能であるとの事が、記されている。

これによって考えれば、

 

つまり、引き寄せの法則は誰かに寄ってそれが検証、証明されない限り、

科学的に証明された!とは言えないのだが、

 

引き寄せの条件が、「同じ波長」や「いい気分」「ポジティブ」「ワクワク」「自分軸」と言う、

 

個人的なものであり、他者の不介入領域にあり、客観的に検証不可能な領域である事が科学的に証明できない理由になるだろうと私は考えている。

 

他者には観測不可能な領域に再現性はそもそも求められないだろう。客観的に、観測不可能なのだから、再現もなにも出来ないだろう。

 

だから、引き寄せの法則はその性質故に、科学的証明は不可能だろうと、私は思う。

 

なぜなら、再現性を証明する為に被験者と全く同じ環境、同じ気分である事が求められるからだ。

 

単純に、検証するための条件が揃わないのだ。

 

だから、引き寄せの法則は科学的に証明が不可能であるはずだと私は思う。

 

他人はどこまで言っても他人である。

 

そもそも、スピリチュアルは科学出来ないのではないだろうか。

 

スピリチュアルを科学出来ると言う人々は、科学の定義が間違っているか、科学を万能視し過ぎている。

 

科学は沢山の人が先人達の遺志を継ぎ、未だに砂をちょこちょこ集め、天まで届く山にしようと努力している途中に過ぎず、全く万能ではない。

 

スピリチュアルは、非科学の領域だと私は思う。

 

「非科学」とは、科学ではないものを指す表現であり、芸術、文学、思想などを表す言葉であり、科学とはまったく別物である。

 

一方で「ニセ科学」や「エセ科学」とは、菊池聡によると、だますために科学を装っているものであるとの事。

 

疑似科学と科学の哲学』の著作を持つ哲学者の伊勢田哲治は、ニセという言葉には価値判断が含まれるため、用語法として疑似科学という言葉の使用にこだわっている。

 

以上より、私はあえて、擬似科学ではなく、ニセ科学と言いたい。

 

スピリチュアル教祖界隈や、記事元の擬似科学はこちらに分類されるだろう。

 

騙すため、あるいは持論を優位に表現する為に科学的に見せる事、これを、ニセ科学という。

 

非科学と、ニセ科学は違う。

 

スピリチュアルと科学を絡めて語る人間は総じてニセ科学を説いていると言っていいと思う。

 

ニセ科学と非科学の区別もつかない人間が、反擬似科学をとなえるとは片腹痛いと思った。

 

私は、理数科にいた事があり(字面はよいがただの阿呆学部である)、その際ノーベル賞を受賞した物理学者の講演を聴く機会に恵まれたのだが、

 

はっきり言って、何を言っているか、さっぱりわからなかった。

 

私の脳味噌が間違いなく理解する事を拒んでいた。

 

非常にありがたい機会に恵まれているとわかっていたのだが、襲いかかってくる眠気との闘いはほんっと〜に辛かった。普通に負けた。何度シャーペンを太ももにさしてやろうと思ったか!

 

一生に一度あるかないかだぞ!と自らを奮い立たすも、眠くて眠くて。

 

ただ、かの物理学者は居眠り扱き始める一般人達をなんのそので、まあ、いきいき喋る。喋る。とにかく喋る。自分のフィールドで思い切り好きな事を喋っていいと言われたオタクが如く。いきいきと話し続けていた。

 

その時に思ったのだ。

 

私はただの一般人で、物理や科学の神には愛されなかったが、決してこの分野を軽んじる事なく生きねば、と。

 

スピリチュアルと科学をいちいち絡めようとする事は、一生をかけてその命を物理や科学に捧げた人々へのとんでもない侮辱であると自覚すべきである。

 

非科学を科学してやろうなど不届き千万。

 

多くの人々がこの分野に命を、一生をかけてその生を終えるのである。

 

散々書いているのだが、日本には分を弁えると言う言葉がある。

 

科学の定義すら覚束ない素人が、ズケズケ科学とスピリチュアルを絡めて話すのはみっともないのでやめたほうがよい。

口を慎むべきだ。専門家に任せておけばいい。

 

また、自分の専門外について、さも得意げに語るのはその分野の専門家への侮辱であると思ったほうがよい。

 

自戒を込めて、口を慎み、分を弁える美徳を身につけたいと思うと、記す。

 

まあ、実は科学も物理も数学も突き詰めていけば、神の存在を否定できないという結論に達してしまうのだが…。

 

人が作ったただの物差したる科学はまだまだ神の領域に達しない。

まだまだ歩み途中に過ぎないのだから。

 

いづれは、スピリチュアルと融合されるかもしれないがそれはまだまだ先になるだろうと、私は思う。

 

その道程の美しさこそが、人間の叡智の美しさなのだ。

 

変な理論理屈で泥を塗らないで欲しいと思うのは、私の個人的な美意識からくるのかもしれない。

 

だが、科学の美しさをスピリチュアルで汚して欲しくないと、私は思う。