ディベートについて思う事
本日は昨日と同じテーマで、ディスカッション形式ではなく、ディベート形式での具体例を示していきたいと思う。
ここでちょっと振り返っておこう。
ディスカッションとディベートの違いはこうである。
《ディベート-トップダウン
結論が先に用意されていて、その結論に導くために必要な判断材料を取捨選択する
ディスカッション-ボトムアップ
個々の判断材料を用意して、積み上げて、議論を通して結論を導き出す》
2.ディベートパターン
テーマはキラキラハッピー教祖様の縄文祭で起こした諸問題について。
a.反教祖様側は、彼女の起こした問題について疑問を投げかける立場とする。
b.信者様は、彼女を信じ、擁護する立場とする。
結論→縄文祭は悪辣なイベントであるか否か。
a.縄文祭は悪辣なイベントである。
何故ならば地域住民へのイベント周知が十分でないにもかかわらずにイベントが決行され、島民は深夜まで続く騒音や奇妙な仮装をした人々に怯えることになったからだ。
また、芝生を焼くなどの公益を害する行為について、
正式に謝罪をしないばかりか、
秘密裏に芝生を張り替えるなど、都合が悪いことを隠匿しようとする行為も見受けられる。
また、参加者の多くが芝生で寝袋での就寝を余儀なくされていたが、当日の気温や天候、また幼い子供も参加可能なイベントにもかかわらず、十分な安全対策がなされていなかった事は大きな問題である。
b.縄文祭は悪辣なイベントではない。
確かに不備な点も散見されるが、参加者の多くはあのイベントを楽しんでいた。
また、多くの人間が主催者のおかげでこの壱岐島を知り実際に足を運びにきたのだから、島にとっても利益があるイベントだった。
a.利益を考えるならば、寝袋での野宿ではなく、宿泊施設への宿泊をするべきである。
また、当初は宿泊施設を利用するという話があったにもかかわらずそれをしなかったのは、主催者側が島への利益を理解しつつも。軽んじている証拠になると思うのだが。
また、来場者の多くが楽しんでいても、それ以外の島民に迷惑がかかっているのであるから、来場者が楽しんだ事が悪辣なイベントではない証明にはならないと思う。
b.確かに島民への周知は不十分だったかもしれない。だが、全くアナウンスしなかったわけではない。そこに悪辣さは無かったと思う。
また、島内での宿泊施設利用に関しては主催者側の準備期間が十分でなく、様々なトラブルが予想されたので、実行しない方がリスクを軽減できたのだと判断したのだと思う。
ただ、島の利益や主催者が観光大使である事を考えると浅慮だったと思うし、任命を受けた使命を果たしていないと判断されても仕方がないと思う。悪辣さは無かったにせよ、確かに観光大使の資質に欠ける判断であるだろう。
反省すべき点である。
ただ、これだけのイベントで大きな事故なく、イベントが済んだのだ。以上からも悪辣さはないように私は思う。
a.では、チケット代についてどう思うか。
チケット代が交通費別、宿泊費別で、寝袋と軽食のみで88000円から55000円というのはどうだろうか。寝袋なし、イベント参加だけも33000円。ごく単純に考えて、この差をとると、寝袋と食事に22000円もかかるのだろうか、と疑問に思ってしまう。この不親切で不透明な価格に、悪辣さを感じる。
また、正直大したゲストも呼ばない、寝袋しかない、グッズや書籍がもらえるわけでもなく、主催者と触れ合う機会も必ずもらえるわけでもない、大した食事も特典もなしのイベントでこの金額は多すぎるのではないか。
b.個人でこの規模のイベントをするには必要な金額だったと思う。細かな会計についてはわからないが、今後開示の意思を示していることからも、悪辣さがあるとは言い切れないと思う。
a.身の程にあった規模で、小さくするなりの工夫も可能だったのではないか。あえて身の丈に合わないイベントを開催する事に悪辣さを感じる。
また会計の計上も未だにされていないようだが、これは誠実さにかけると思う。
以上からも、悪辣なイベントと言われても仕方がないのではないか。
b.確かに現時点では会計は計上されていない。誠実さに欠けていると判断されても仕方ないほど期間が空いているとも思う。
ただ、悪辣かどうかは会計が示されてからの判断でも遅くはないのではないか。
…。
まあ、こんな感じだろうか。
ディスカッションと違い互いの立場をしっかりと示しながらその結論に至る根拠を示すことにディベートの肝がある。
ただ、注意してほしいのは互いの立場は明確に違えども、社会的な観点から判断して発言をするというところにある。
つまり、自分の主張を通す為に事実を歪曲したり、自分の主張のみをし続けていない事、議論において社会的な視点で発言するという事が大切な部分なのである。
もっとわかりやすくというリクエストがあれば改めて記す意思もあるので、遠慮なく声をかけて欲しい。
重要なのは、ディベートにしても、一度は相手の意図や意思をしっかりと受け止めるということにある。
信者様方は私が見たところ
これを出来る人も、恐らく一人もいない。
ただの一人も、である。
ちょっと異常な数字だよなあと思う。
サンプル数が足りない事も考えられるのだが、なんらかの傾向があると思ってまあ間違い無いだろうなとも思う。
教祖様の洗脳によるものなのか元々の気質か、またその両方なのか興味深い。
事実を事実としてまずは直視する事。
ディベートにしろ、ディスカッションにしろ、議論の軸は持論や自己の主張にはなく、また、教祖様の教えの中にも無い。あるのは社会的な視点と互いの立場である。
それすらわからない教養の無さが人生を不幸にしている一番の原因であると早く理解すべきだろうな、と私は思う。
まあ、認知の歪みによるものかもしれないが、いずれにせよ自分達の思想や思考の異常性に気がつかなければ、いつまでたっても社会との折り合いはつけられないだろう。
社会復帰したくなければ、ご勝手にどうぞ。
ただ、世の中に対してぶすぶすと不満を燻らせるのはお門違いだし、
自分の不幸合戦のツケは自分で払えるようにならないといけないだろうという事からも、できれば理解し、何かを持ち帰って頂けたら幸いである。