ボヴァリー夫人と信者様
教祖様や信者様等アメブロスピ界隈をぶらぶらと散策しているといつも思い出すのが、
我こそは教養高き信者、あるいは教祖だと、自負している方がいたら是非ご一読くださいませ。
また、これを読んだ事があって信者様なら、読み直したほうが良いと思います。名作中の名作ですよ。
https://www.amazon.co.jp/ボヴァリー夫人-河出文庫-ギュスターヴ・フローベール/dp/4309463215
さて、フローベールはこの作品で風紀紊乱の罪に問われた。要は、社会風紀を乱す俗悪な作品だ!こんなものは良くない!と訴えられたということで。
ちなみに、フローベール側が勝訴し、この作品は瞬く間にベストセラーとなる。
また、ボヴァリー夫人で卑近な題材を精緻な客観描写で作り上げたフローベールの手法はその後、多くの作家に引き継がれ、写実主義から自然主義という文学的な潮流となる。
彼はこの『ボヴァリー夫人』裁判中に、「ボヴァリー夫人は私だ」という言葉を発している。
そう、何が言いたいのかと言えば、ボヴァリー夫人は、あなたで、私で、信者様で教祖様である、と言うことだ。
まあ、いちいち読んでいられない方向けにちょっと雑にはなるがあらすじをまとめておこうと思う。
ボヴァリー夫人は、少し夢見がちな少女時代を過ごし、医師と結婚する。
やがて、とりえのない凡庸な夫が心底嫌になり、都会の社交生活に加われない自分を不幸な人間だと考えるようになる。
妻の神経症的な変調を場所のせいだと考えた夫は、決心して、片田舎の村に移り住むことに決める。ボヴァリー夫人は退屈な生活にウンザリしはじめ、やがて若い男性と不倫に走る。
それから夫の目を盗んでの逢引きが始まる。彼女は毎日のように熱心に恋文を送り、恋愛を味わう幸福に浸る。
また、 商人に次第に気を許し、彼の勧めるままにぜいたく品をつけで買うのが習い性になる。
彼女はやがて人目を盗んでの逢引きに飽き足らず、恋人に駆け落ちをするように迫る。
その一方で、つけで買ったぜいたく品のために高利貸しへの借金がどんどん膨らんでいく。
彼女は夫に知られないように地所を売るなどしていたが品物を買う癖が抜けず、ついに裁判所から差し押さえの通知が来る。
彼女は返済のために奔走し、恋人やかつての恋人のもとに助けを求めるが金は得られず、絶望の末に薬剤師の家に忍び込んで砒素を飲んでしまう。
彼女は応急処置もむなしく衰弱していく。
やがて死の床で司祭から聖油を受けると、宗教的な荘重さによって許されたかに見えたが、
最後の瞬間にまるで彼女の人生をあざけるように乞食の歌う卑猥な歌が聞こえてくる。
彼女は狂ったように笑い、息絶える。
最後、夫は庭先でエマの遺髪を握りしめたまま頓死し、娘は遠い親戚に引き取られた後、工場へ働きに出される。
と、いう物語である。
やはり、是非ご一読くださいませ。このあらすじでは全く主人公に共感出来ないだろうから…。
物語ではあるが、フローベールは遅筆で有名であり、緻密で丹念な取材でも有名だったので、ノンフィクション的側面も強い。
事実を元にした物語である。
(←ついでに彼は厭世的な引きこもりでもあった。世知たけた親戚とも仲良くなれないピュアネスフルほぼニート時代がある。)
私たちは誰だって身の内にボヴァリー夫人が居るのだ。
退屈は嫌いだし、美しい物が好きだし、刺激的で好奇心を満たしてくれるようなドラマチックな毎日を送りたいし、贅沢に過ごしたい。
愛されたいし、賞賛されたいし、尊敬と憧れの眼差しで見つめられたい。
それをどれ一つも全く望まない人間はいないだろう。
だが。
身の内のボヴァリー夫人を私達は飼いならす事ができるのだ。
それが理性であり、教養であり、分を弁えて、周りに感謝し、配慮し、周囲を愛する事に他ならないのだと、私は思う。
勉学こそ最大の暇つぶしだし、
教養こそが真の美しさだし、
分を弁えて、周囲に感謝と配慮と愛を与える事が真の意味での愛であり、天意であり、ドラマチックな毎日よりかけがえなく素晴らしい、贅沢なものだろう。
地味で退屈な毎日こそが、神から与えられた最大の愛と福音なのだと、どうして気がつけないのか、と私は思う。
ボヴァリー夫人は最後まで自分から、現実から逃げ続けた。
彼女に与えられたのは、結局神の福音ではなく、乞食の卑猥な唄だった。
さあ、現代のボヴァリー夫人達、
あなた方は一体どうなる事やら。
私はフローベールとして、じっくりあなた方の最期まで見届けようじゃないか。
それがフローベールがボヴァリー夫人へできる唯一の事なのだから。