スピリチュアルと社会の類似性について

お知らせ

黒猫ドラネコさんが縄文祭や壱岐でのスピリチュアル観光大使問題についてご意見を募集しております。

 

http://kuronekodoraneko15.blogspot.com/2019/01/blog-post.html?m=1

 

 

 

まずはこちらをご覧ください。

 

https://mainichi.jp/articles/20190121/k00/00m/040/196000c

 

 

「自分のやったことがオウムの活動を支えてしまった」

 

 

「麻原(松本智津夫元死刑囚)を妄信し善悪の判断を委ねたことで自分の言動に対する責任感を放棄してしまった」

 

 

「自分の目で見て自分で考えて欲しい。真理は麻原が独占できるようなくだらないものではない」

 

まあ、信者様方が私のブログをよんでいるとは思えないが、一応記しておく。

 

結局はそう言う事なのだ、と。

 

スピリチュアル的に解説した方が信者様方に通じやすいのならば、畑違いであるし、ご専門の方々には非常に恐縮であるのだが、僭越ながらそのように記そうと思う。

 

私は何度かブログに記している通り、スピリチュアル程厳しい世界はないと思っている。

 

我々は自由意思と選択する自由を与えられているのだが、裏を返せば、それは個人としての自立と自律を促されている事に他ならない。

 

神とか天とか高位の意思とか龍とか宇宙人とかまあなんでも良いのだが、

 

そういったものがある観点で見た場合、

 

我々が何故その自由意思を与えてられているのか、理解しようとせず、

他人に依存したり、他責的に生きるような人間は大変罪深い事であろうと思う。

 

だが、懐深き天は何度でも我々に学びの機会を与えるだろう。

 

それが、苦難であり、受難であり、禊である。

不幸だ悲劇だと嘆くことの一切は、そもそもの天与のものの一切を拒絶し否定するから、また、穢れとして純なる想いを殺し続けるから起こるのである。

←うわあ。信仰宗教臭い★素人の経験則であり、なんかの教義とかじゃないんでこれ〜★もし同じこと言ってる宗教があっても信じないでくださいね★

 

だから、全てを受け入れ、粛々淡々と地に足をつけ、地道にコツコツと精進するより他にする事は無いのだ。

地獄を受け入れて、生き抜くより他ないのだ。

 

私の記す事は追い詰められている人にとって、悲劇の渦中にいる人にとって、死刑宣告の如き厳しいと言葉だと思う。

 

だが、スピリチュアルなんて、こんなものだし、私達が生きている世界なんてこんなものなのだ。

 

決して、緩くも優しくも、キラキラハッピーでも無いのだ。

 

だから、夢と幻想に生きるのならばそれでも、いいと思う。仮初めの優しい世界でキラキラハッピーするのも悪くないのだ。ただ、そのツケをいつ払わざるを得なくなるのか、あいにく私にはわからないのだが、おそらくそれはいづれの時にか払わねばならないだろう。そういう世界なのだから、悪しからず。

 

何が言いたいのかというと、スピリチュアル的に見ても教祖様を信仰し続ける事は穢れや罪を増やしているだけですよ、ということである。

 

社会的に見てもスピリチュアルに逃げる事は社会から乖離する事に他ならないし、生きづらさを重ねていく事にしかならない。

 

また、スピリチュアル的な側面からみても、生きづらさや苦難や不幸を重ねていく行為というだけである。

 

よく私は知らないのだが、龍神様を味方につける的なスピリチュアルがあるそうだ。だが、非常に危険な行為だからやめた方がいいだろうな、と思う。

結局依存心を生み出すし、それを喰い物にしている何かがあるんじゃ無いかな〜と思う。

 

また同様に稲荷信仰も、相当な手練れでない限りは近寄らない方が良いだろうな、と思う。現世利益を依存心から生み出す何かかどうかが、素人には判断出来ないからだ。

 

まあ、スピリチュアル感覚器官が無い私の経験則なんで、話半分くらいで聞いてほしい。

 

結局私たちの多くは、現実を受け入れサバイブしていく事以外他ないし、それ以上は求められてはいないのだ。

 

思い描いていた人生ではないかもしれない。

いつかキラキラハッピーな世界に行ける、愛する人に愛されて大切にされる私という少女漫画的信仰があるかもしれない。

多くの人に支持され、尊敬と憧憬の眼差しで見つめられる事を夢見ているのかもしれない。

 

でも、そんなものはこの世の中のどこにも存在しない。そんなものは現実に疲れた大人達の生み出したリアリティのあるファンタジーにしか過ぎない。

 

私達は地に足をつけ、泥臭く、努力し、生き残る為に知恵を絞り、時に傷つき、時に苦しみに慟哭しながらもサバイブしていくしかないのだ。

 

しょうもないファンタジーに溺れている暇なんて、本来であれば無いはずなのだ。

 

さあ、世知たけた現実的な人間として生きて行こうではないか。それこそが、あなたの生活をスピリチュアルとする第一歩なのだから。