美人不美人考
私は何故だか一般的よりはるかに美人と呼ばれる人々と縁があるのだが、
そう言った方々を常に見ている事もあってか、なかなか審美眼に自信がある。
勿論、芸術文化を好き好むという傾向ももあるからだとは思うのだが。
その点を踏まえてぜひ聞いて欲しいのだが、キラキラスピリチュアル界隈に美人は一人もいない。
某元アナウンサーの小林さんを含めてだ。いや、見た目は彼女、とても可愛らしいと思うのだが。
美人ではないな、と思う。
キラキラハッピースピリチュアル界隈は、不美人率が異常に高いと思う。
勿論、美しさの基準は時代や文化で大きく変わるし、絶対的なものはないのだが。まあ、でもある種の傾向があると思う。大きな流れというか、いつの時代もどこの文化でも共通する大まかな部分があると思う。
美に絶対はないが、それでも共通項はあるだろうというのが私の見解だ。
キラキラハッピー教祖様大好きマジ可愛いと言う人々がいるのは知っているのだが、ああ、本当に美しいものを知らないんだなあと心底気の毒に思う。
ピンク頭の脚本家の方も、達磨な芸術家も、ああ、美しくないなあ、本当に美しいものを知らない方々なんだろうなあと思う。
脚本家の方に至っては私より美人に出会う機会が多かっただろうに、
わざわざ他の方の美しく無い所ばかり探してみていたんじゃないだろうか、
一体何を見ていたんだろうかこの人、
と穿った見方をしてしまいそうになる。
この方々の歌に、
ブスでもバカでもデブでもいいじゃないか、と言うものがある。
確かに一人ひとりの能力には限界があるし、出来ることにも限界がある。
どうにもならない事だってあるのだが。
出来るだけの努力をせずにありのままの自分に胡座をかく事を人は怠惰というし、ただの醜さしか感じない。
たぶん、人はそういう風に出来ている。
怠惰を醜いと感じ、退廃や荒廃を良しとしない心があると思う。
(退廃に美を感じる文化のエモ系、ゴシック系についてはまた別とする。退廃美の文化はあると思うが、ここでは論点からズレるので深掘りしない。)
だから、ありのままの怠惰な自分を許容する人々を歪で醜いものと感じてしまうのだろうな、と私は考えている。
外見の美醜だけで人は美しさを決めないと思う。
美人だけど、性格悪いよね、とはたまに聞く言葉であるが、そもそもそれははたして美人と言えるのか?と私は疑問を抱く。
造形美はあるのだろうが中身が伴っていないのだから、私は歪に思えて、多分美人と定義しないだろうな、と思う。
美は絶対的ではないので、まああくまで個人の見解として。
逆に造詣美は大した事なくとも、真摯な生き方や生き様は美しいと思うし、
一生懸命に何かに取り組んでいる姿勢は、誠実さが伴えば、何より美しく見えるものと思う。
キラスピ界隈は、一生懸命に自分の好きに取り組んでいればキラキラ綺麗★な文化があるようだが、
一番大切な社会や周囲の人々への誠実さや配慮や思いやりに欠けるため、
随分とズレた美的感覚だなあと思う。
美とは究極的には主観に過ぎないものだとは思うのだが、
美とは周囲に評価されて価値が高まっていく側面もあるので、
キラスピ界隈の美人が社会で認められる事は無いだろうなあと思う。
ダラダラと色々書いたが、結局はスピリチュアル界隈の美人の定義ってズレてるよね、と言う事がいいたいだけである。
キラキラハッピー教祖様は、
正直言って、年甲斐も無く若者と同じような格好をしているのが見ていて辛いなあと思うし、
目尻や口元にどうしても年相応の物を感じてしまうので、またその髪色や格好がより一層、品がなく、だらしなく見えてしまう。場末のスナックのハシャギキャラのチーママや、地方の小悪魔agehaを熟読している痛ママのようで、辛い。
これは、笑える教祖様にも言える事で、やたらとすいた髪型が90年代の若者のようだし、その見た目でカジュアルすぎる服しか着ないので、年相応の円熟さが無く、どこか貧しさを感じる。
心屋心理教教祖様は、年相応の見た目と言う意味では一番マシかもしれないが、
ブログでの言動が危なすぎて、無精髭がただのメンヘラの証明にしか見えない。
まあ、人様の見た目をアレコレ言うのはあまり趣味の良い事ではないよなあと思う反面、
表に出て活動する教祖様方には様々な意見が有名税としてついてくるのだから、まあ我慢していただくより他ないよな、とも言える。
その分の利益は社会から享受しているのだから仕方ないだろう。
人は美しくないものには惹かれない。
お洒落なカラスのように、人様の羽で自らを飾り立ててきた教祖様方のメッキが剥がれてきた今、
本当に美人になりたい人々は蜘蛛の子を散らすように去って行くだろう。
周囲を取り囲む、垢抜けない不美人達に教祖様方が美容に取り組む必要を説いてくれるといいのだが、と私は思う。