言語リテラシーとスピ界隈
東大の大学院に留学を予定している同僚に「まきば、とぼくじょうは何が違いますか?」と聞かれて直ぐに答える事が出来なかった。
突如、適当に答えて、この後東大の大学院で恥をかかせることになってはいなけない、と謎の責任感が芽生えたからかもしれない。
(よく考えたら、大学院でまきばとぼくじょうについて会話する可能性はほとんどないだろうに。専攻も全く関係なさそうな分野だし。)
「大まかには同じかな」と答えたものの、気になって仕方なくなり、仕事中もずっと頭の片隅にあった。
『大辞林』で調べると
「牧場」は、牛や馬などを生産・育成する設備を備えた所。まきば。
とあり、
「牧場」は、柵などで囲い、牛や馬などを放し飼いにしておく所。ぼくじょう。とあった。
辞典を閉じながら、
まあ、意味は大まかには同じだったから良かった、ただ、イメージの違いもあるよなあと思った。
まきばの方がのんびり、朗らか、大自然、のようなどこか牧歌的なイメージがあり、牧場は、どこか機会的でビジネス的で堅い雰囲気があると感じた。
同じ言葉でも、読み方でこうも想起されるイメージが違うものなんだなあと思う反面、意識して言葉を使わなければ個々人のイメージやコミニュケーションに齟齬が生じる原因になるなあとも思った。
キラキラハッピー教祖様界隈やアメスピ界隈、マルチビジネス界隈は、
このへんの言葉の使い方が実に巧みであり、
ひょっとして自分は良いカモなのではないか?と信者様がはたと気がついた時、
矛先が自分達に向けられないよう、巧みに信者様に自責の念が湧くように仕向けてくる。
いわく、
感謝が足りない、
真理を理解していない、
まだ途中だから、
信頼が足りていないとか、
軸がブレているからだとか、
本当の自分に出会えてないね、
等々。
どう考えても、人を導いたり、人に物事を教えたり、伝えたりする場合には、双方向の関係性があるのだから、どちらか一方のみに責任があるわけないだろうに、何故か自己責任論や自責論を教祖様界隈は持ち出してくる。
教祖様方も本当に真理を説いているつもりならば、自分の教え方の問題点をあぶり出して改善した方がいいと思う。
自分の教えで、再現できないできていない人や理解できていない人が遥かに多いのならば、それは自分の教えかたに問題があるのだろう、と気がついた方が良い。
論点のすり替えとも言えるかもしれないが、私は教祖様は口では様々言うものの、実際は単純に人に教える気がないんだろうなと思っている。
信者様方が賢くなるのは教祖様方にとっては都合が悪いのだろう。
実は全部自己責任なんだよ!
という言葉はある種の真理なのだろうと私は考えているのだが、
ひょっとして自分が馬鹿で教祖様に騙されているんじゃないか?や、
私のせいで他の人が不幸になったに違いない、と自責の念に駆られている人にかける言葉としては、
非常に配慮に欠けると思うし、事実を歪める恐れもあると思う。
騙される人よりも騙す方が悪いのは当然だし、
自分のせいで他の人が不幸になったと考えている人は、
恐らく不幸になった人に共感と同情を覚えて、
どうにもしてあげられなかった自分を許せず、自責の念に駆られているのだろうから
自己責任論を持ってこられても、
気持ちが軽くなるどころか自分の気持ちも、不幸になった人の気持ちもおざなりにされたようで気分を害するだけだろう。
ただ、スピリチュアル界隈はこれを自分達の都合の良いように使っている。
まきばとぼくじょうの様に漢字が同じでも読み方が、違うものもあるし、それにより、想起されるイメージも変わってくるものもある。
また、真理を説いた言葉でも語られる状態により受け入れられるかどうか、その真理が必要かどうか、変わるものもある。
スピリチュアル界隈はそれを論理のすり替えや自分達の責任逃れに使おうとする向きがあるから重々気をつけなければならないと思うし、私達も身を守るためにも、リテラシーを身につけていかなければならないと思う。
しかし、謎の単語が飛び交うスピリチュアル界隈、最近は外国語レベルで理解できなくなってきているのだが、さてはて、そちらの単語学習、どうしたもんか。