jealousyは嫉妬、envyは羨望

「何故日本人はハウスキーパーを雇わないの?と、いうか日本人は家に他人を入れるのを嫌がるよね、

(彼女の国ではハウスキーパーは衣食住をともにするらしい。その為これは住み込みの意味合いを含む。)

でもそれって非効率じゃないかな?

保育園が足りないのならば、それに代替する案を採用すべきで、文句ばかり言うのっておかしくない?」

 

と言われて、うーむと思わず唸ってしまった。

 

彼女はどうも保育園が足りないとか、融通がきかないとぶつくさ言っている方を見てそう思ったらしい。

 

「まあでも嫌な人は嫌だし、

家事や子育てを外注するより、

自分が大変でも保育園に預けたいから待っているというのもわかるよ。

効率ではなくて、社会性や情緒を優先というか。ハウスキーパーの文化は日本に浸透していないからね。

それに、効率より気持ちを重視しているからこそ、色々言いたくなるのかもね。」と答えた。

 

価値観は人それぞれであるし、文化背景が違えば優先するものや重きをおくものもちがう。

 

現代の私達はハウスキーパーを家族の為に雇い入れるという文化に慣れていないが、遡れば乳母の文化や子守をしてくれる姉や、奉公人の文化があったのだから、ごく単純に考えればそれが効率的なのかも知れない。

 

ただ、国民皆中流に慣れている私達が、召使い的な立ち位置にいるハウスキーパーを家庭に迎え入れるのはなかなか難しいかもな、とも思うが。

 

私達は存外ヒエラルキー社会に慣れていないのかもしれない。

アンチエリート思考や、階級社会への違和感や嫌悪が庶民ベースであるのかもしれない。

 

何だかんだ、階級社会や競争社会は日本の文化に馴染まないのだろうなあと思う。

 

今も脈々とイギリス人達に巣食う階級意識を見ると、士農工商は単なる役割分担に近かったのだろうなあとも思うし。

 

様々な文化背景を持つ人々と話すことは単純に面白い。

 

自分と違う意見を持つ人々と話す事は自分の価値観を見直すきっかけにもなるし、自分の世界を広げてくれる。

 

何故自分がそう思っているのか?を誰かに説明したり、自分以外の類似の価値価値観を持つ人のことを想像し、代弁者となる事は良い経験になると私は思っている。

 

だから、教祖様界隈や、信者様界隈が直ぐに自分と異なる意見を持つ人々をアンチだとか、ヘイトだとか、嫉妬だとか言うのを見れば見る程、

 

ああ、せっかくの学びの機会を生かせないなんてなんて気の毒なんだろうと、嘆息する。

 

違う価値観や意見を頭から否定する事しか出来なかったり、何故違うのか考えたり話したり出来ない人々は

 

おそらく社会では相手にされない。

 

マルチやスピリチュアル界隈の人々が矢鱈と嫌われるのも、実はこの対話が出来ない部分による所が大きいと思う。

 

自分達の握りしめている価値観を絶対視し過ぎているのだ。

 

私なら、ああそうなんですね、わかりましたどうぞお幸せに、と語りもうそれ以降は話をする気が起きなくなる。

 

批判や反対意見が出た時に、教祖様界隈は良く嫉妬という。

 

常々気になっていたのだが、

嫉妬(jealousy)と羨望(envy)という2つの言葉は、厳密には意味が違う。

 

一般的には同じような意味を持つ言葉のように扱われていて、

嫉妬という言葉は現在、羨望という言葉にのみ用いられていた意味をも帯びるようになってきているから

まあまあ問題はないかなと思うのだが、

 

教祖様界隈でいう嫉妬とは、羨望の意味で使われている事が多いようであると思う次第。

 

と、すると別に私は教祖様に対して羨望的な感情は持ち合わせていないので、

 

何か酷く大きな勘違いをしているんだなこの界隈は、と思う。

 

そういう勘違いがまた多くの人が敬遠する理由になるのである。

 

まあ勘違いでも本人が幸せならそれで良いんじゃないですかね。

 

私はまともに話せる相手だとは思わないので、やんわり優しく距離を置くけれども。

 

何というか、嫉妬というのは、話が通じない人には感じないし、

反対意見全てをアンチ化するのは、自分の教養の無さを露呈しているだけなので、まあまあ勘違い甚しい人々って爪弾きされますよ、ってだけの話である。