行為と人格は別、罪悪感は免罪符ではない

〇〇を許さない、や〇〇は認めない、と言う言葉に対して過剰に反応する人々がいる。

 

勿論、それは断定的な意見であるがゆえにそれに対して過剰に反応したくなる気持ちもわかるのだが、

 

それが行為に対するものなのか、それとも人格に対するものなのか一度考えて欲しいと思う。

 

そして、その真意がどこにあるのかも良く考えてほしい。

 

断定的な意見に対して追い詰められる人がいるのだから、厳しく意見すべきでないと言う話もあるのだろうが、

 

それが果たして個別のケースに向けられているのか、包括的に語られているのかもまた考えてほしい。

 

そして、罪悪感を抱く人々に配慮すべきと言う見方もあるが、罪悪感は免罪符ではない。

罪悪感を軽減する必要は勿論あるのだが、それで社会道徳や倫理が歪められてはならないと私は思う。

 

私は情緒豊かな人間が嫌いではない。

むしろそう言った人々の優しさに触れりたびに尊敬するし、敬愛の念を抱くし、好んで付き合う。

 

彼らの多くは、その優しさ故に共依存の問題を抱えている事が多い。

 

おそらくは繊細で優しい心を持つが故に周囲の人間が自分が求めるのと同じように繊細で優しい扱いを求めていると考え、優しさを存分に発揮するのだと思う。

 

それは賞賛されるべき美点であるのだが、同時にそれは共依存を生み出す毒にもなり得る。

 

私は、情緒豊かな人間が、共依存の中で楽しく優しく繊細に暮らしていく分には別に構わないと思う。

 

優しさを必要とする人々にとってそれはオアシスになるのだから。

 

だが、オアシスはオアシスであり、また社会に戻っていく必要があるのであれば、優しくするだけではならないと思う。

 

オアシスの蜃気楼に心躍らせる過酷な砂漠に戻らなければならないのならば、優しさだけではいけないと思う。

 

オアシスで一生を過ごすのならばそれはそれで構わないのだが、

オアシスの水はいつか枯渇する。

 

そうして人はまた新たなオアシスを求めてフラフラ彷徨い始めるだろう。

 

スピ界隈は砂漠のオアシスの蜃気楼であり、またそこに救いを求める人が集まるのだろう。

 

共依存の恐ろしい所は、居心地の良さや悪さに関係なく、それがなくてはならないと思いこむ部分にある。

 

私は恐らくは社会の役に立つような素晴らしい人材が、この問題を抱えるが故に社会に出ることなく潰れていく様や狂っていく様を何度も目にしている。

 

それを目にする度に、ああ、本人達が幸せであろうと無かろうと、

 

おかしな事はおかしいと言うべきだったと後悔する。

 

大概、共依存的な素質を持つ人々は過剰な優しさ故に、同情すべき人間や、共感すべき相手を間違う。

 

その優しさが本当に相手にとって必要なのか考えてほしいし、

優しさ故に変えるべき部分を見誤るのが一番困る所である事に気づいてほしい。

 

真に変えるべきは、厳しい意見や、世論や、社会なのか?

 

それとも十分なサポートを受ける事が出来ない社会福祉のシステムか?

それを問題提起しない世論の動向か?

 

本当に何かを守りたいと思ったり、

一人一人が能力を存分に発揮できる社会を作りたいと思った時。

 

人は矢も盾もたまらず行動する筈だ。

 

口先だけで理想を語るのは誰だって出来るし、言いやすい場所に向かうのも、わかる。

 

だが、真に守りたい、救いたい、

どうにかして変えたいと思えば

 

人は動き出す。

 

他人に何かを求めずに、自ら動き出すだろう。

 

配慮しろ、優しくしろ、厳しくするな、他人の気持ちを知るべきだ、と

いちいち他人に求めているうちは、

 

共依存的な思考にとらわれているに過ぎないし、

自らの正義感に似たエゴイスティックな承認欲求を満たしているに過ぎないと思う。

 

誰かを救う事は本当に本当に難しい事だし、守る事もまた、同様である。

 

優しさだけでは世界は変わらない。

 

だが人々は優しさに群がるだろう。

 

良き働きを。

 

そうして、繰り返しになるが、自らの罪に苦しみ、改めて行きたいと願うものに真っ当な人は石など投げつけない。

 

優しさだけではなく、自立できる場所に助けを求めなさい。

 

罪悪感を抱くだけでは何も変わりません。

優しい言葉に心を解されても、真の問題解決がなされない限り、それは麻薬で痛みを誤魔化しているにすぎないのです。

 

罪悪感は免罪符ではありませんよ。

自分に向き合う勇気を持ってどうか助けを求めて下さい。