教祖様は対話力皆無

「世の中には、批判ばかりする人がいる。

口が立つので説得力があったりする。

そんな人たちから批判を受けると撃沈しちゃうよね。」

 

とは、ある教祖様の言葉であるが。

 

自らの理論に自信がないからいちいち感情が揺さぶられるわけで。

自信がないのに人に説法するとは、そんなものでお金をいただくとは片腹痛いと思う。

 

 

私は批判はありがたいものだと思うし、別に撃沈はしないと感じる。

 

もちろん気分の良いものばかりではないし、中には感情的過ぎてそもそも何を目的として語っているのかわからないものもあるが

 

自分にはない視点であるし、まあ、言い方は悪いが

いちいち貴重な時間を使ってくれているのだからありがたいと言えばありがたいのだ。

 

道徳や倫理に照らし合わせ、情緒的過ぎない限りは。

 

私自身は弁が立つほうではないと自覚している。

 

私の周囲が異常に弁の立つ人間が多いせいかもしれないが、どちらかと言えば私は、それほど弁が立つ訳ではないし、粘り強く説得するだけの優しさも持ち合わせてはいないと思う。

 

弁が立つ人間と話しているときは開眼するような心持ちになることも多いし、

 

認めざるを得ない人々は、正当性のある議論好きばかりなので論理に破綻なく隙を与えない為、全く議論で勝てた試しがない。

 

だが、最も良き解答を得られるのであれば自論に固執する必要は無いわけで、むしろ有難い学びの機会やアイディアを頂戴したと感謝するばかりである。

 

だから、自論に固執する人々の気持ちが正直よくわかっていないのだと思う。

 

何故自論に固執するのか、恐らくは自尊心の低さや承認欲求や視野狭窄によるものだとは思うのだが、

 

そもそもそんな世界の狭さでは話にならないと、多くの人が相手にしない事だろう。

 

スピに限らず、情報商材界隈や、フリーランス界隈では、よく常識を疑え、とか、何故それが正しいと思い込んでいるのか?と問いかけてくるのだが、

 

それは、土台たる道徳や倫理がしっかりしていて、かつ社会を様々な視点から観察する事が出来、主観と客観を同時に見る事が出来るようになって

 

はじめて意味をなすと思う。

 

あの界隈にあつまる人々は誰一人としてこれを当たり前に出来ていないので、

ただただ、命綱無しでバンジージャンプしようぜ!重力なんて実はまるで嘘なんだ!と訳の分からないことを語っているようにしか思われない。

 

だいたい、主観と客観を同時に見る事が難しいから私達は他者とかかわり、彼らの視点からみた意見を、聞かなければならないのだ。

 

だからこそ、私は対話ができなければならないと考えているし、これが出来るようにならない限りは、

例えばスピリチュアルから足を洗おうが、情報商材界隈と縁を切ろうが、フリーランス界隈と決別しようが、

 

生きづらさは変わらないと思う。

 

自分と違う意見こそ大切にするべきである。

 

ただ、これだけを盲信するのもまた、危険ではあるのだが。

 

先代のパンツェン・ラマは、この博愛が故に今の悲劇を生み出している気がしてしまうし、彼自身も悲劇の渦中にその身を捧げる事になってしまった。

 

アステカ文明は、スペインの征服者コルテスによって滅亡し、1533年にはピサロによってインカ帝国が滅んだ。彼らが他者を愛するがゆえに。

 

私達は他者と対話しなければならない。

いちいち撃沈している暇は無い。

説得力があるのだと感じるならば、どこにその要素があり、どこを受け入れ、どこが自分の意見と違うのか考えなければならない。

 

ワンネス、グローバル、国籍不要論、様々な夢や希望に溢れた言葉が存在するが、私達がそれらを実現するためには

一人一人の対話力が必要なわけで、スピリチュアルは必ず必要なものではないし、ツールとしてはインターネットやSNSにはるかに劣るだろうと私は思う。

 

まあ、訳がわからんスピリチュアルや似非心理学やニセ科学に引っかかっている暇があるならば、対話力を磨こうね、と言うだけの話しである。