見えざる弱者と怠惰について
先日、社会から見えざる弱者についての記事を読んだ。
http://bunshun.jp/articles/-/10863?page=3
私が彼らについて思うのは、どうか地獄のような場所から逃げる勇気を持って欲しいと言う事だ。
あんまり酷い場所にいると、人間は逃げだす事を考えられなくなる。
もうこれ以上酷いことが起こりませんようにと、身を縮こめてひたすらに耐える事だけを選んでしまう。時が過ぎるのをただ待つのみになってしまう。
あまりに酷い場所が普通なものだから、ここでうまくいかない自分は、外の世界でもうまくいかないに違いない、というか、ここでもこのくらい辛いのに、外の世界なんて、もっと恐ろしくてつらくて怖いに違いないと思い込んでしまうのだ。
誰の編著であったか失念してしまったのだが、酒呑童子の昔話でも似たようなエピソードがある。
都から攫われてきた女は酒呑童子の身の回りの世話をし洗濯女として働くうち、助けに来た渡辺綱だったか、坂田金時だったかに、今すぐ逃げるように言われたにもかかわらず、このように語るのだ。
「…私、ずっとここで洗濯をしているものですから、急に他所へはいかれませんわ。どうぞ、酒呑童子はあちらにおります。お気をつけて。」
酒呑童子退治の手引きをしておきながら、急に他所へは行かれないと言う。
これはまさに見えざる弱者が地獄からなかなか逃げ出せない心理と類似していると言えるだろう。
急に他所へは行かれませんわ、とは地獄だと知ってはいるものの、もう逃げだす事すら億劫で、ただひたすらに耐えるだけで精一杯だと言っているのだろう。
貧困は怠惰ではないかもしれない。だが、地獄と知りながら逃げ出さずに耐え続けるのは見方によっては怠惰なのではないだろうか。
そう、逃げ出す事すら出来なくなるほどに疲れきっているのだろう。
理解できる、あんまり酷い目に遭い続けると、逃げる体力も、気力もなくなるし、耐えるだけで1日頑張り続けなければならないのだから。わかる、本当に辛いと思う。
でも、それはセルフネグレクトと同じなのだ。どうか、耐え忍ぶ辛さを、世の中に足を踏み出す辛さに変えて欲しい。
私はおそらくこの状態の人間を救うのは非常に困難を伴い、膨大な時間と気力がかかるだろうと思う。
簡単に、個人で手を差し伸べることは、正直、躊躇してしまうし、公的機関や社会福祉にそれらを任せたい。
そして、そのうちの何人かは差し伸べられた手を取らない事だろうとも思う。
もうこれ以上酷い目に遭いたくないんだ、と。余計な事をしないでくれと、怒りを向けてくる事もあるだろうと思う。
本当に耐えるだけで精一杯で、張り詰めた糸が切れてしまえば生きていけないと信じ込んでいるのだから。
出来れば、個人ではなく、医療や市役所やシェルターや、NGOを頼って逃げて欲しい。
とにかく逃げて、休んで欲しい。
貧困は必ずしも自己責任ではない。だが、どんな環境であれ、自分を幸せにする努力をする事は自己責任を伴うだろう。
私の意見は参考にならないかもしれない。
アンタは今幸せだからそう語るのだろうと言われるかもしれない。
だが、そのようにアンタは幸せだから、恵まれているからと世の中を下から睨め付けるような発想自体が、自分を幸せにする事から逃避する怠惰であると私は思う。
私は自分の身上や個人的経験を必要以上に明かすつもりはまるでないのだが、
適当に語っているわけではなく、自分自身の経験からこれを記している。
どうか、地獄から逃げ出す勇気を。
どのみち、そこからなんとかしていくしかないのだから。
あなたを救うのは、
理想論ではなく、優しい言葉でもない。
他人が与えてくれる同情でもない。
あなたの行動だけなのだから。