ファッション発達障害考

自分が発達障害だと思うとある炎上している絵本作家が語っていたが、

面白い冗談だと思った。

 

発達障害と認定することができるのは医師であり、その前に臨床心理士による検査やテストもある筈だ。

 

今はWAIS−Ⅲ(知能指数を測るテストで発達障害の診断に用いられる)が一般的な方法だろうか。

 

まあ、臨床心理士と医師による診断が必要なのは間違いない。

 

ネットでの簡易診断や勝手に名乗るのであればそれは厨二病に近い。

単なるファッション発達障害だろうと私は思う。

 

障害者なんで…と言い訳するファッション障害者の為に多くの障害者が無用に苦しむこともある。

 

そもそも、障害があろうと無かろうと、できる努力もせずに、他者を理解しようとせずに、自他の感情に配慮せずに、障害者なんです許してくださいね、と胡座をかいている人間に誰も優しくなどしないだろう。

 

私は知人に診断済みのアスペルガーがいる。知能指数が高く非常に頭の回転が速いタイプのアスペルガーである。

 

感情表現は苦手そうではあるが、感情が無いわけではないなと思う。

 

ただ、能力が高すぎるが故に、あまり人づき合いをミツにする必要もなければ、敬遠されやすい立場である事が多かったのだろう、と思う。 

 

本人は静寂の中で穏やかそうに過ごしているが、どこかいつも居心地が悪そうだなと感じる。

 

また、ADHD診断済みの知人もいる。私からしてみれば、多芸多才なタイプであるのだが、私にはわからない苦悩があるのだと思う。20代まではずっと服薬をしていたそうだ。今については詳しく知らない。

 

彼らの多くは自分の障害に苦悩し、煩悶し、なんとか社会と自分との折り合いをつけようと一生懸命に努力をしている。

 

出来ないことや苦手なことも、障害にあぐらをかかず、克服する為に工夫している。

 

私は彼らに対して、共感性がないとか、感情が乏しいとは思わないし、思えない。

 

そういった涙ぐましい努力をしている彼らを間近に見ている私としては、障害を盾に出来ないことを許してほしいなどと図々しい事を言う人間の所為で、必死に努力し、苦悩する彼らが無用の差別や侮蔑を受けるのではないかと危惧してしまう。

 

ファッション発達障害は、障害を受け入れてそこから適切に努力している人々の努力を無に帰してしまうような恐ろしさを含んでいるだろう。

 

障害は、あくまでもただの障害であると私は思う。障害という言葉自体に私は差別の意識を持たないからだ。

 

主体たる本人が日常生活に支障をきたしていて、かつ完全なる回復が見込めないのならばそれは日常を害している要因だろうし、だから、障害なんだろうと思う。

 

差別意識が強い人ほど、言葉に過剰に反応すると感じている。勿論、差別意識の増長を防ぐために言葉を意識するのも悪くはないのだろうが、

 

そもそもファッション的に、あるいは適当な免罪符としてそういった事を語る人々を駆逐する方が、言葉狩りより必要な気がしないでもないよなあと、私は思う。

 

まあ、病名がついたほうがのちの対処はしやすくなるわけで、それらを免罪符にしなければ、ちゃんと受け入れてくれる土壌はあるだろう。

勿論、本人の努力次第ではあるのだが。