自分探しの旅
先日話題になっていた子供がやはり海外に行ってしまったようで、もう何がどうなっても良いのだろうなあと思った。
保護者を選べない子供はかわいそうだし、保護者もまた子供を選べず、自ら御する事も出来ないのだから、あとは好きにしたら良いと思う。
それで何が起ころうとも、それは本当に自己責任だと私は思う。
今の若者は皆んな何者かになりたいのだろう。
正直一時的にはなれると思う。でもそれはコンテンツとして自分を差し出す事に他ならず、飽きられたら簡単に捨てられてしまうだろう。
まだ若い人々は何者でもないからこそ、何にも持っていないが故に自分を差し出していくしかない。
情報社会の中でそれらは飛ぶような勢いで消費され、摩耗され、捨てられていくだろう。
彼女の人生は彼女以外にとっては消費できるコンテンツにしか過ぎないし、
彼女を揶揄することも、嘲笑することも、無視することもなんだってできる。
そして、消費者として彼女や彼の人生を消費する権利を我々は得てしまっているのだ。
それが、自分を売り物にするという事なのであり、多くの芸能人や水商売の人々が大金を得ている理由である。
他人に自分を消費する権利を与える覚悟がないのならば、自分の未来を切り売りし、将来は、配偶者や子供までも差し出す必要までも加味した上で、デジタルタトゥー時代を生きて欲しいと思う。
ある知人のモデルが、相棒俳優が騒ぎになる前に海外に逃げられたのは、本人の人柄が良かったからだと語っていたが、私はその話を聞いて、もう日本には戻ってこれないのかもしれないな、と感じた。
後ろ暗い云々は生憎私にはわからないのだが、たとえ渋谷のスクランブル交差点であろうとも、自らを売り物にしていた人にとっては、気づかれてもおかしくないだろうし。
案外ほとぼりが冷めたら図々しくも戻ってくるかもしれないが、それはまた、醜聞とともに自分自身が消費されていくことに他ならないだろう。
海外にいこうが何しようが構わないが、自分の人生を自分で決められるようになるには、知性や教養が必要だろうし、経験のみからそれを学ぶことは余りに効率が悪すぎるだろう。
彼の人生をコンテンツ化し、煽って笑っている大人達は、彼の人生の責任など取らない。ひとしきり笑い転げた後にブラウザを閉じて、コンビニでビールを買う頃には彼の人生など忘れ去っているだろう。
前途ある若者が転落する様を悪趣味にも楽しんでみているのだろう、と私は思う。
だが、彼自身がそれを望んでいるのだから、それもまた仕方の無い事だと思う。
わたしの周りに海外に自分探しに行って何かを見つけた知り合いは一人もいない。