SNSは自助グループの役割を果たすのか?
最近、ツイッターやらブログ界隈やらをぶらぶら散策する時間もなく、ひたすら仕事と学びの千本ノックを繰り返しているのだが、
(何しろ四月に仕事の試験が一つ、学びの試験が六月に三つ入っているのでスケジュールギッチギチなのである。)
リフレッシュとして5分程ぼんやり過ごしていると様々な思考が頭の中でぷくぷくと泡のように沸いては消え、浮かんでは消えていく。
面白いので、その様を観察していると、ふと、スピリチュアルもまた依存症なのかもしれないなと思った。
本当に病名がつくレベルの。
スピリチュアルショッピングや共依存沼に入り込んでいる人も多いし、やめたくても、ハマっていたものがハマっていたものなので言い出しづらいというか、何というか、辞めること自体を求めていても、助けを求めづらいというか。
sa自助グループがあると良いのかもしれない。あ、saとは私の造語である。
依存者をスピリチュアル・アノニマス
依存者の家族をスピノンと定義する。
aa、アルコール依存者の家族会や自助グループをモデルにしている。
キラキラハッピースピリチュアル教祖様の凋落ぶりは凄まじいものがあるし、そろそろ界隈から離れてはじめている人々も多そうだ。
依存者会の知識や知恵がおそらく界隈から離れていきたい人々や救いたい家族を助けるのではないかと私は考えている。
家族は依存者と適切な距離を取る、とか、後始末はしないとか。説教したり、小言は言わない、シラフの時に話をするとか、もう、そのまま使えるんじゃ無いだろうか。
依存者が自らやめたいと安心して語れる関係構築が大切だろうと思う。
挨拶をするとか、嬉しい気持ちを伝えるとか、そんなところからスタートしていくことが、家族と依存者の信頼に繋がっていくだろう。
誰かに相談して否定されたら、もう誰にも相談できなくなるだろう。
すでに自分で自分を責めているのだから。みんなが普通にできていることを当たり前にできずに、現実と向き合うことを拒絶している事を本当はちゃんと理解しているのだから。
SNSは自助グループの役割を果たすこともあるかもしれないし、それができると私は考えているが、同時にそれはオープンではなく、クローズな場所であるべきだとも思う。
私はオープンな場ではやはりスピリチュアル依存は良く無いし、現実逃避は辞めろと語る。児童虐待は良く無いし、育児放棄は許されないと語るだろう。
だが、クローズな場所で、個人的に相談を受ければ、相手の立場や心情、環境を踏まえて、言葉を選んで、責める事はしないだろうと思う。それは、本人が一番自分を責めているだろうと知っているからだ。
不特定多数への発信と、パーソナルは発信は当たり前だが、違う。
そこの見極めができていない人が多すぎるので、オープンなSNSは自助グループの役割を果たさないだろうと今は考えている。将来的にはわからないが。
そういった、揶揄するのでもなく、自立できるスピリチュアル依存むけの自助グループがあると良いなあと思う。
もちろん、利益目的ではなく、また、各地に小さなコミニュティとしていくつかあり、自分に合ったグループを、探すことができればベストだろう。
まあ。
必要性が高まれば、誰かがそのうち作るだろうけれども。
おそらくは。