花は桜か牡丹か芍薬か

 

花の色は うつりにけりな いたづらに
   わが身世にふる ながめせしまに

小野小町(9番) 『古今集』春・113

 

まさにこの心持ちなんだろうなあ、あの界隈は、と思う最近。

 

まあ、現代訳をすれば、

 

春の長雨が降っている間に桜はむなしく衰え色あせてしまった。恋や世間のもろもろのことに思い悩んでいるうちに、ちょうど私の美貌が衰えてしまったように。色あせてしまった。

 

であり、

 

次の一手をあれやこれやと考えているうちに大衆に飽きられてしまった、キラキラハッピーした部分も衰えてしまった、まるで若さや美貌?が色あせたように。

 

である。

 

時の流れに身を委ねずに、若さにしがみつく大人はみっともない。

 

子供までこさえてからに、どうにも人として円熟せざる人間をみると、猿だって交配くらい出来るのだし、猿との違いを見せてみろよ、と思ってしまう。

 

いつまでたっても厨二病的な発言やら、人生キラキラハッピー楽したいなどと言う大人を見ると、

語彙力の差はあれ、その浅慮さに変わりはなく、

感情的になりがちな時点でもう相当楽して生きてるなコイツと思わざるを得ないし、

 

思考力や論理的な会話が出来ない致命的な部分に関してどうしたものかと頭を抱えてしまう。

 

まあ、現実が直視出来ず、また、自分自身や他者を客観視できない時点で、なんらかの生きづらさを抱えているのだろうなと思う。

 

正直、リアルでは絶対に関わらない。

 

snsを見ているとこの痛々しい、未熟な子供的な大人が多すぎてなんだか泣けてくる。なんでいつまでたっても子供でいたいと思うのか。

 

ロリコン文化の所為なのか。

(外国人の友人の説。まあ、確かにkawaiiアイドル文化は他国からしたらhentai的に見えるんだろうが。そんな彼は乃木坂大好きという矛盾。)

 

おまけに子育てをしていたり、教育に関わっていたりするものだから、おいおい大丈夫かいなと老婆心ながら思う。

 

年齢相応に、社会と対等に付き合えてはじめて大人なのだろうと思う。

 

社会が悪い、世間が酷いと語る人間は、社会や世間の一部である自覚が乏しく、

ようはまだまだ自分の世界で生きている夢見る夢子ちゃんなのである。

 

魔法はないと信じているくせに、自分はまだ、こんなもんじゃないという幻想の中にいる。自尊心の高さと現実の落差に耐えられないがゆえにファンタジーに生きはじめる。

 

ああ、なんてかわいそうな大人たち。

そうしてそんな大人たちに囲まれている子供たち。

 

願わくば、そんな大人たちなどを反面教師として捨て去って円熟して行け子供たち。

 

と思ってしまう。

 

いつからこんな風に歳を重ねることや人として成熟したりわ円熟していくことを拒絶する事がスタンダードになったのだろうか。

 

よし!ちゃんと大人をやるぞ!と思わなければ大人になれないなんて悲しすぎる。

 

桜も牡丹も芍薬も、いづれの時にか散り去るものでだからこそ美しく尊いのである。

 

散り去る間際の馥郁たる香りやしな垂れた花弁に憐れを感じる心があれば。

人もまた同じことだと思えないだろうか。

 

 

まあ、オバさん子供やオッさん子供はカッコ悪いし、痛々しいというだけの話である。