責任を取るべき人は居ない
伊丹万作の戦争責任者の問題というのがある。
私はかつて騙されたのだと、あるいは私は社会的弱者である庇護されるべき存在であると声高に叫ぶ人々が増えるであろう未来を想像しつつ、
この本を、あるいは文章を読んでくださる方がふえると良いなと思って記している。
以下引用。
「熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。
しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。
「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。
だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、
無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、
私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。
我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。
これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。
つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。
この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、
まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、
だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、
分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。」
要は、
あなたは騙されている間に誰のことも騙さなかったのか?
あなたは自分の弱さを社会や誰かに押し付けようとしていないか?
をしっかりと考えて欲しいという事である。
勿論、必要以上に自己を卑下する必要は無い。ただ、事実を客観的に捉えて反省をすべきこともどうか忘れないで欲しいと思うのだ。
これから教組様がたに騙されたと嘆く被害者達が、元信者様方が多数派となっていくだろう。
多数派になった事で安心するのであれば、それは違うのだと、私は伝えたい、
被害者であったとハタと目が覚めた人々は被害者である事に格好つけて世の中批判を始める人に変わることがあるのだが、私はそれは意志薄弱による二元論的思考だよなあと思ってしまうので、
そこから一歩踏み出して考えて欲しいなと思うのだ。
あなたが騙されている間、あなたの為に心を痛めた人々がいるはずだ。
あなたが盲目的に教組様に入れ込んでいる間に、傷ついた人やあなたの愛を受け取れなかった人々がいるはずだ。
あなたのすべきことは被害者面して泣きわめく事ではない。
先ずは、あなたの為に泣いた人々の気持ちを理解することだ。
あなたを信じ、待っていた人々への謝辞を述べ、示すことだ。
あなたは可哀想な被害者であると同時に、過酷な状況からサバイブをした素晴らしい生還者であるのだ。
二度と騙されない為に出来る事を考え、行動を改めていくことを。
しつこくしつこく私は何度でも語ろう。
自力で自立せよ、と。
被害者のままでいるのは、サバイブした自分を卑下する行為に他ならないのだから。
余談になるが、私は伊丹万作の息子、伊丹十三が好きである。エッセイならば欧羅巴退屈日記、映画ならば静かな生活。お暇な方はぜひぜひご覧くださいませ。何というか、美意識の塊なんですわ。生きづらいだろうなあというほどの完璧な美学があるので、オススメですよ。