悲しい優しさ

さて、黒猫ドラネコさんの連載第二回が掲載された。

 

https://www.cyzowoman.com/2019/05/post_230997_1.html

 

私はこの記事を読んで、途方もなく悲しくなってしまった。

 

ああきっと妹さんは本当に本当に優しくて、家族思いの方だったのだなあと。

 

優しくて家族や友人思いの方ほど大切な人に自分の悩みや苦しみを伝える事が出来ないのだろう。

 

自分の苦しみや悲しみの為に、大切な大好きな家族や友人を悲しませたくないと思うのだろうから。

 

自分1人が苦しみや悩みを抱えるだけでいいと考えてしまうのだろうから。

 

もしかしたら、言葉にならないくらい心も体も疲弊していたのかもしれないし、苦しみや悲しみはさておき現実を生きねばと気を張っていたのかもしれない。

 

きっと、そんな時に聞こえてくる「頑張らなくていいよ」はどんなにか甘美な響きだろうと思う。

 

家族や友人にこの言葉を言われても、もしかしたら彼女は受け入れられなかったかもしれない。

 

「ううん、そんな事ないわ、大丈夫よ。私頑張ってなんかいないもの。」

 

そんな風に言ったかもしれない。

 

大好きで大切な家族や友人に迷惑をかけたくないから。

ひょっとしたら、そんな風に頑張り過ぎている事にすら気づいていなかったかもしれないのだから。

 

だからこそ、赤の他人から言われた頑張らなくていいよ、が、すっと心に入り込んだのだろう。

 

頑張らなくていいよ、は、実は責任を取れない人間が語っていい言葉ではないにもかかわらず。

 

あなたが頑張らなくなった時、肩代わりしてくれるのは、手を取り、肩を貸してくれるのは

甘い言葉や煌びやかな言葉をくれる、魔法のような幻想を魅せてくれる教祖様方ではないのだ。

 

きっと、あなたが懸命に幸せにしたいと、優しくしたいと願う家族や友人たちなのだ。

 

頑張らなくていい、と言う言葉は、優しさや自由さ、シンプルな美しさを孕んでいるように見えてしまうのだが、

 

本来は、泥臭くボロボロで、疲弊した、底なしの悲しみを孕んだ言葉だ。

 

そこには自由も美しさも純粋さも無い。

 

あるのは、底なしの悲しみに対してしか差し出すことの出来ない慈愛に近い悲しみだと思う。

 

教祖様は魔法使いに見えるように舞台裏で必死に手品を覚え、阿呆のような台本を作り、

ジャパネット高田ばりの魅力的ワード、魅力的舞台を作り上げて

 

深夜の海外通販番組が如くの雑で馬鹿馬鹿しくもつい引きこまれてしまうようなリズミカルな語り口を必死に習得し、

 

白鳥が如く水面下では足をバタバタ掻き回しながら

 

幸せな人々に呪いを振りまき、悲しみを金に変えていく悪徳錬金術師である。

 

悪徳錬金術師なものだから、人々の悲しみや疲れ、優しさを感じれば、それらをすぐに金に変えてやろうと考えるし、あっという間に思いつく。

 

大好きで大切な人々の為にと頑張り続けた健気な気持ちを、

頑張らないと言うワード一つで

大好きな大切な人々への憎しみに変えてしまう。

 

大好きな大切な人々は、憎むべき対象へと変えられて、

健気な気持ちは尊大な自尊心とエゴ、自分勝手へと変えられて、

教祖様に現金を運び続ける鴨にされてしまうのだ。

 

私は何度でも記そう。

 

教祖様はあなたを救わない。

教祖様はあなたの金を狙う豚。

教祖様は悪徳錬金術師。

教祖様は自分の罪深さもわからないような阿呆。

教祖様は人の心もわからないような人非人

 

そんなものはあなたを救わない。

 

疲れたならば休んでいいし、止まっていいし、大好きな大切な人々に助けてほしいと言って欲しい。

あなたの優しい気持ちはきっと伝わっているのだから。

 

あなたを助けたい人々はきっとたくさんいるのだから。

 

家族も友人もいないならば、公的は場所に助けを求めてほしい。できれば複数箇所に。

 

10人に助けを求めれば、きっと助けてくれる人がいる。

 

誰かの純粋な悲しい優しさは教祖様にとっては蜜の味。

 

純粋な悲しい優しさは、誰の為?

どうか少しだけ立ち止まって考えて欲しい。