正義と道理は違う
正義と言うものは本来存在しないと私は考えている。
しかしながら、道理というものの存在は否定しようがない。
どうも、正義と道理を混合している人が多いように感じていて、それが私が常々理解し合う事など出来ないと考えている人々との一番の違いであるようだと最近になって気がついた。
ああ、成る程ねぇ。
さて、その違いを伝えるためには、抜本的教育の見直し、歴史認識を正しくする事、またそれらの人々の心の弱さを改善せねばならず、ああなんて面倒なんだろう、とてもじゃないが私には無理、と思ってしまう。
いいじゃないか、持論の正義を道理と勘違いし理論をふりかざすくらい、どうせ全て理解するまで本人に相応のものが返ってくるだけだけなのだからとも思うが
大概がなぜか人を導くべき教祖的立場や、人を育て慈しむべき親の立場である事が多く、
その親に育てられる子供達の事を思うと放っておくのもまた道理に背く事なのではないかと悩ましく思う。
正義と道理を混合しているうちは、あの人は間違っている、正義を振りかざし他人を傷つけているんだと自己正当化しかしないだろう。
私はいつだって道理をわきまえることが大切であり、道理に則り判断する事こそが大切であり、正義などどうだっていいし、自分自身の正当性もまたどうでも良いと思っている。
頑固になり、意固地になり、持論に固執する事は成長の妨げにしかならないと考えているから。
ただし、道理に背くような振る舞いに対してだけは話が別である。
教育勅語には、
①親孝行
②兄弟は仲良く
③夫婦は仲むつまじく
④友達とは信じ合い⑤慎み深く行動して
⑥困っている人がいれば手を差し伸べ
⑦勉強や仕事を習って
⑧知恵を養い⑨道徳心を身に付け
⑩進んで社会のために尽くし
⑪いつも憲法を大切にして、法律を守り
⑫もし非常事態になったら勇気を持って国のために行動するのです。
とある。
11と12が悪用というか、悪解釈をされた事は非常に悲劇的であるが。
11については、人が人を裁くのではなく、法が人を裁く法治国家であれ。誰が上に見えても、誰が上などという事は無いと言うのが恐らくの真意であり。
12においては、1から11が身についておれば、自然と滅私の気持ちが育つのだから、非常時には勇気を持って行動せよ、自分の為ではなく自分より大きなものの大義の為に。
だと思う。
そして、これらが自然にわかっていれば、
虐待が許せない理由も
他人の領分を簡単に犯し搾取する人間に辟易する理由も
自力で自立しようとしない人間に嘆息する理由も
自分の弱さを他人に押し付ける人間を蛇蝎の如く好まない理由も
わかるのでは無いだろうか。
愛が随分と大安売りされている時代。
可愛いと愛が同列に並べられる浅はかな時代。
愛おしいと慈しみが同列に扱われてしまう時代。
まあ、わからんだろうよ。
君達は君達の世界でよろしくやってくれたまえ。必要なヒントはここに全て記した。
君達は正直言ってもう手遅れだ。
君達が救われる未来は無くなった。
来世に期待だ。
精々寿命が尽きるまで同じ地獄をぐるぐる巡りたまえよ。地獄めぐりよろしく。
どうにかしてやりたくとも、残念ながらこればかりは、どうしようもない。
ただ、願わくば君達の子供達に届く事を祈る。
君達は救われないけれども、君達の子供達は救われるかもしれない。
これは君達が変えられる事だね、君達は救われないけれども、君達の子供達にはまだ間に合うようだよ。
その微かな希望にかけて、君が行動してくれたなら、君が理解しようと自分の弱さに向き合ってくれたならば、こんなに嬉しい事は無い。
まあ、君達はその未来を、下らない嫉妬に任せて手放してしまうのだろうけれども。我が子より我が身がかわいいその浅ましさに向き合う未来が待っているだろうよ。
そうしてまた多くの菩薩を泣かせるのだろうよ。
と、ここまで書いておきながら、一体これば誰が書いた文章なのかと首を捻りたくなる、まあいいか。
寝不足、寝不足、早く寝よう。
もしかしたらそのうち削除するかもしれません。わけわからん文章なので。