奪われるという被害妄想

元信者でした!という界隈民が続々と湧いてでてきていて、ああやはり思った通りだなあと感じた。教祖様方への風当たりが変わってきたから。

 

自分の弱さや愚かさに向き合う為の告白、懺悔ならばそれもまた良い事だと思う。

 

ただ。私は被害者でしたアイツら許せないと悲劇を語るだけならばそれはまだ悲劇の中にいるだけで、界隈民である事に変わりないのだ。

 

取り返してやる、悔しい、虚しい、悲しい、許せない。

色々な感情が涌き出でる事だと思う。

 

どうか、新たな似非スピリチュアルビジネスにハマらぬように、

しばらくはご自身の悲しみや怒りに向き合いながら、 

snsから離れて日常を丁寧に暮らしてみてほしいと思う。

 

窓の掃除とか玄関を水拭きするとか水回りをハイターで清潔にするとか

髪を切るとかネイルをするとかゆっくりお風呂に浸かるとか

音楽を聴くとか本を読むとか丁寧にコーヒーや紅茶を入れるとか

毎朝家族に挨拶をするとか良いところを必ず一つ褒めるとか感謝の気持ちを伝えるとか

 

ゆっくり時間が取れるときは散歩をしたり、

時間のかかる手料理を作ったり、

テーブルコーディネートにこだわってみたり、お金に余裕があればあたらしいベッドカバーを買いに行きシーツも新しくしよう。

 

お金に余裕がなければ、

水と雑巾で拭き掃除をすれば良いし

仕事を探しに行けばいい。

 

そうやって少しずつ少しずつスピリチュアルから抜け出して欲しい。

 

どうか。

 

失った時間もお金も大切な人達も帰って来ないかもしれない。

 

でもまだ目の前にあるものがある。

目の前にあるものを慈しんで欲しい。

 

そうやって繰り返し繰り返し暮らしていく中である日突然ふと気がつくのだ。

 

太陽の光に、雨露に濡れる葉に、穏やかな風にも、柔らかな西日に照らされる産毛にさえ、

生命の美しさは宿っていて、その全ては当たり前のように与えられている奇跡なのだと言う事に。それこそが我々がありがたがっているスピリチュアルの根幹である事に。

 

スピリチュアルなど学ぶものでもお金を生み出し集める手段にさえならない、なんでもない当たり前の今目の前にある全てのものだと言う事に。

 

私は悟ることや真我を極める事、宇宙の法則を知る事も、神に近づく事も、正直あまり興味がない。

551蓬莱の豚まんの方が興味深いし、peek a booでのヘアケアをいつにするか、いつ白金癒庵にハーブティーを買いに行くかと予定を立てる方がよっぽど大切な問題である。

 

たしかにガチスピとなかなか縁が切れないが、それだって別に必要だから仕方なくである。

 

ガチスピが必要ない方々は、必要な人々に比べて業が浅いのではないかとわたしは考えていて、

だからこそどうかスピリチュアルなどという魔境にして逃げ場の無い死が救いにすらならない修行場に足を踏み入れないで欲しいと思っている。

 

大丈夫、あなた方は愛されているし、赦されている。

 

奪われるものなど何もないし、人は絶対に侵される事のない領域を持っている。

 

真我など極めずとも神と繋がらずとも、

全ては与えられていて、愛されている事に気づく事は

毎日を丁寧に丁寧に少しずつ少しずつできることを精一杯すれば必ずできる。

 

どうか、snsを捨て、悲しい記憶を捨て、歩み始めて欲しい。

 

ご自愛くださいませ。

 

試験一つ終わった!ハッピピー。

さて。11月に向けて勉強勉強。