独善偽善と、道理は違う

ああ、ほら、何を言ってもわからない人にはわからないのだから、無駄な労力を使う必要はないだろうにと思いつつ記しておかねばならないようなので。

 

独善偽善と、道理は違いますよ。と。

 

もう、わからない人にはわからないのだから。

 

そしてのんびりやの神様とやらは今世で理解でなくとも人を見捨てはしないのだからほおっておけと思いつつ、ほおっておいてはいけないという働きもあるようなので。

 

羨ましい。独善偽善に酔える人々が、その幼さが。人の親だろうと、私より年かさだろうと、その幼さが羨ましい。

 

さぞかし恵まれた、でも本人にとっては大変な人生だったことだろう。

 

一生不平不満を語っていられるその恵まれ具合ときたら。

まあ。来世はもっと酷い所に生まれるだろうが。

 

独善偽善と道理を混合する時点でお察しである。覚悟のない人生。

腹が座ることなく腹を立てているだけの魂磨きにおいて無意味な人生。

 

羨ましいよ、選択の余地があるのだもの。

 

神はあなたを見捨てはしない。

あなたに相応しいものを送るだけ。

 

全ては回帰し輪廻するまで。

 

独善偽善が生まれるのには、理由がある。

肥大した孤独な自我故にその価値観を保持するのだ。

そんなものなどあるわけないのに。

自我など、大したものではないのに。

 

ただの肉宮の生存本能に過ぎないのに。

それはあなた自身ではないのに。

 

 

独善偽善を信じる人はセーターに人生を委ねるようなものである。

 

セーターの毛糸が引っかかって身動きが取れないのならばセーターを脱げばいいだけである。人生においてなんら不自由はない。

 

毛糸をほぐしてもいいし、引っかかっている部分を切り捨ててもいい。

セーターに、人生を委ねる必要はないのだから。

 

セーターを自我と置き換えればよくわかるのだが、自我なんてそんなものである。

 

単なる生存のためのものであり、不快感を生むこともあるが、人生においては大して影響しないはずのものである。

 

馬鹿げた話。

 

スピリチュアル、神様、日本大好きという人々の自我の肥大化が問題視される事があるが、自我なんてものに支配されるくらい脆弱であるのは、現実世界をサバイブする覚悟が無いからである。

 

彼らがスピリチュアルに惹かれてしまう理由はただ一つ。

 

道理から外れているからなんとか戻りたいという本能によるものだろうと私は考えている。

 

神はあなたを愛さない。

だが。神はあなたを見捨てもしない。

 

それを、人は地獄と呼ぶ。

 

神に愛されたいと願うが故に。

 

全ての人は神に愛されているのに。

愛など全てどこにも簡単に当たり前に意識する事なく、存在しているのに。

 

望む形以外は愛と認めないという傲慢がそこには存在するだろう。

 

とかなんとかつらつら書きながらやっぱり裁きたくなるものだなあと自己自我の肥大化を観察せざるを得ない。

 

真のスピリチュアルは魂の向上を望むものだから、必然人並みの幸せと乖離する道を選ぶ事になる。

…いや。人並みの幸せ最高じゃん?全然求めるし。

 

と、言うことは人並みかそれ以上の幸せや金銭を求める事がそもそも似非スピリチュアルかどうかの分かれ目になるだろう。

見極めポイントはここにあり。

まあ、かといってガチスピはオススメしないけれども。

 

ああ、また明日から忙殺の日々が始まる。

傾向と対策

またぞろガチスピと縁深くなってきている今日この頃。

だいたいの時間とお金がポンポン消えていくタイミングでこういった事が起きる。

マジでそんなことしてる場合じゃ無いんですけど。精神的にボロボロになる暇ないんですけどというタイミングでやってくる謎。勘弁してくださいませ。

 

今回の波は来年の3月に山を迎えるだろうなあと予想される。先長いわ。

 

ガチスピ系はすなわち精神的成長を強制されるもので後々は相当楽になるものの、やはり縁深くなければやらずとも楽しくよろしく暮らせるのであえてこちらから秋波を送る必要も無いだろうと私は思っている。

 

 

私だって子育てるんるんブログとか綺麗になる為の美容ブログとかプチプラの天才ブログとかなんかそういう華やかなキラキラハッピーブログ書きたいわ。そういう幸せそうな人々が似非スピにハマるから不思議でならない。多分、どんなに満たされて生活していても埋まらない穴があるのだろう。それを、人は向上心と呼ぶのだけれども。

 

と、まあ。今まさにその通りの忙しさと懐事情であり、ブログをちまちま書いているくらいならばやるべきことをやらねばと思うものの、散漫な思考をまとめるためにも。

 

焦らない焦らない、一休み一休み。

 

本当に本気で似非スピリチュアル教祖様たちは一度もガチスピと縁づく事が無かったのだろうか。いや、無いんだろうけれども、全く無いわけじゃ無いんじゃなかろうかとも思ってみたり。いや、知らないけれども。

 

アメブロ界隈にいる教祖様方の最盛期にもガチスピ系の方々に私は、

そのうち派手に散るだろうからほっときなさいと言うか、

お前は自分の為すべき事をしろ

いちいち他人に構うな

いちいち裁くなお前は自分の弱さから人を裁く浅ましさがあるぞと、

叱られたものである。

 

うん?え?私、悪くなくね?と言おうものなら3000倍の言葉が返ってくる。

 

悪とは何か何故自分を省みないかお前は何様か云々かんぬん。

 

このブログは似非スピ許せないと言うよりは単なる情報提供ブログ、そして個人的な備忘録として始めたし、その目的は変わっていない。

 

教祖様方がバタバタと自滅していく様を見てもやはり道理と言うものは、ことわりと言うものは絶対的存在なのだなあと思うくらいで

ざまあみさらせ、とは思えない。

 

必然、自滅していく教祖様の死に体をみてそこに自分自身を見るのである。

誰かに道理を説くなど私には荷が重すぎるわ、と。

 

匂わせる程度でしか語れないのもまた私がガチスピ界隈に浸かる覚悟が無いからである。

 

可愛いもの綺麗なもの美味しいものステキなものワクワクドキドキキラキラファンタジーを捨てて何故そんな場所に行かねばならんと思っているし、現世利益万歳でよろしいと思う程度には低俗な人間であるのだから。

 

こう見えて←?デパコスもイメコンも好ましい楽しいと思っているし、必要に駆られているとは言え着飾る事も嫌いではない。

 

それらはガチスピとは基本的に対局にあるのだから、私がガチスピを好まないのはそもそもの美意識に理由がありそうである。

 

人生が茨の道ならば、ガチスピは素っ裸でエベレスト登山を強いられるようなものである。

 

私の匂わせが鼻につく人もいるだろうが、

そもそもスピリチュアル界隈において

鼻腔をくすぐる良い香りというのは間違いなく似非スピであり、地獄にまっしぐら、穢れの道に落ちるものとして間違いないだろう。

ガチスピは大概鼻につくか、耳が痛いか、神経に触るかである。つまり、はじめのうち中ごろまでは非常に不快だという事。

 

まあ、退路を完全に絶たれるまでは逃げ回ってみようかなと思う。

 

まあ、逃げ回るとだいたい大惨事にしかならないので、最後は覚悟を決めて立ち向かうだけなのだけれども。

正義と道理は違う

正義と言うものは本来存在しないと私は考えている。

 

しかしながら、道理というものの存在は否定しようがない。

 

どうも、正義と道理を混合している人が多いように感じていて、それが私が常々理解し合う事など出来ないと考えている人々との一番の違いであるようだと最近になって気がついた。

 

ああ、成る程ねぇ。

 

さて、その違いを伝えるためには、抜本的教育の見直し、歴史認識を正しくする事、またそれらの人々の心の弱さを改善せねばならず、ああなんて面倒なんだろう、とてもじゃないが私には無理、と思ってしまう。

 

いいじゃないか、持論の正義を道理と勘違いし理論をふりかざすくらい、どうせ全て理解するまで本人に相応のものが返ってくるだけだけなのだからとも思うが

 

大概がなぜか人を導くべき教祖的立場や、人を育て慈しむべき親の立場である事が多く、

 

その親に育てられる子供達の事を思うと放っておくのもまた道理に背く事なのではないかと悩ましく思う。

 

正義と道理を混合しているうちは、あの人は間違っている、正義を振りかざし他人を傷つけているんだと自己正当化しかしないだろう。

 

私はいつだって道理をわきまえることが大切であり、道理に則り判断する事こそが大切であり、正義などどうだっていいし、自分自身の正当性もまたどうでも良いと思っている。

 

頑固になり、意固地になり、持論に固執する事は成長の妨げにしかならないと考えているから。

 

ただし、道理に背くような振る舞いに対してだけは話が別である。

 

教育勅語には、

①親孝行

②兄弟は仲良く

③夫婦は仲むつまじく

④友達とは信じ合い⑤慎み深く行動して

⑥困っている人がいれば手を差し伸べ

⑦勉強や仕事を習って

⑧知恵を養い⑨道徳心を身に付け

⑩進んで社会のために尽くし

⑪いつも憲法を大切にして、法律を守り

⑫もし非常事態になったら勇気を持って国のために行動するのです。

 

とある。

11と12が悪用というか、悪解釈をされた事は非常に悲劇的であるが。

 

11については、人が人を裁くのではなく、法が人を裁く法治国家であれ。誰が上に見えても、誰が上などという事は無いと言うのが恐らくの真意であり。

 

12においては、1から11が身についておれば、自然と滅私の気持ちが育つのだから、非常時には勇気を持って行動せよ、自分の為ではなく自分より大きなものの大義の為に。

だと思う。

 

そして、これらが自然にわかっていれば、

 

虐待が許せない理由も

他人の領分を簡単に犯し搾取する人間に辟易する理由も

自力で自立しようとしない人間に嘆息する理由も

自分の弱さを他人に押し付ける人間を蛇蝎の如く好まない理由も

 

わかるのでは無いだろうか。

 

愛が随分と大安売りされている時代。

可愛いと愛が同列に並べられる浅はかな時代。

愛おしいと慈しみが同列に扱われてしまう時代。

 

まあ、わからんだろうよ。

 

君達は君達の世界でよろしくやってくれたまえ。必要なヒントはここに全て記した。

君達は正直言ってもう手遅れだ。

君達が救われる未来は無くなった。

来世に期待だ。

精々寿命が尽きるまで同じ地獄をぐるぐる巡りたまえよ。地獄めぐりよろしく。

 

どうにかしてやりたくとも、残念ながらこればかりは、どうしようもない。

 

ただ、願わくば君達の子供達に届く事を祈る。

君達は救われないけれども、君達の子供達は救われるかもしれない。

 

これは君達が変えられる事だね、君達は救われないけれども、君達の子供達にはまだ間に合うようだよ。

 

その微かな希望にかけて、君が行動してくれたなら、君が理解しようと自分の弱さに向き合ってくれたならば、こんなに嬉しい事は無い。

 

まあ、君達はその未来を、下らない嫉妬に任せて手放してしまうのだろうけれども。我が子より我が身がかわいいその浅ましさに向き合う未来が待っているだろうよ。

 

そうしてまた多くの菩薩を泣かせるのだろうよ。

 

と、ここまで書いておきながら、一体これば誰が書いた文章なのかと首を捻りたくなる、まあいいか。

 

寝不足、寝不足、早く寝よう。

もしかしたらそのうち削除するかもしれません。わけわからん文章なので。

互助精神と図々しさ

困っている人がいるのだから助けてやってもいいだろう、それもせず説教するなんてあんまりじゃないか。

 

と、言うのが私が常々うんざりさせられる開き直りの弱者のいいぶんであり、

私が常々理解し合う事など出来ないと考える、自称愛情深い強者の弁である。

 

何かを護ろう、守ろうだなどと言うのは非常に図々しい事この上ない。  

 

そんな事を語る暇があるくらいならば自分の未熟な精神をまずは救いたまえよ、と思うが親切に忠告してやるほど私は鷹揚な人間でもない。

 

少年漫画脳ファンタジーを現実世界に持ち込む大人ほど面倒くさいものはない。私は物語を好むが、少年漫画の害悪はその様な友情努力勝利、正義に勇気に希望と仲間達、愛情と武力絶対主義のアホを量産する所にあろう。

 

正義が存在する世界とはなんと単純な事か。

 

物語を物語として読めない人間は物語を楽しむ資格がない様にも思うが、得てしてそういった類いの人間は現実逃避の手段として物語を好む。

 

強いものが弱いものを助けるのは一種の義務であるが、それは、

自分も弱いものも守る事のできる世界での話である。

 

最低限生き延びる事が出来、ほんの僅かの余力でなんとか誰かの手を引ける程度の世界での話。

 

だが、それ以上は分を超える。

 

だから、自分以外のものが襲われても傷ついても助けに行く事など、したくてもできないのだ。

 

それを薄情だと言う人もいるだろうが、薄情だろうが何だろうが、現実的に考えればそれが精一杯なのである。

 

 

誰かが分を超えて助けてくれることを信じている時点で、あるいは誰かを支えていることに満足を覚える時点で

 

自立出来ない共依存人間であり、立派な地雷である。

 

平気で他人の分の領域を侵害してくる浅ましい人間である。

 

他人に何かを求めたり、自分の正義を貫く為に周囲のおおくの人々の事を考えられなくなる時点でもう図々しいというか何というか。

 

互いにリスペクトを持ち生きていく為には最低限でも自立していなければならないだろう。

 

でないといずれどこかの国の様に、世界から孤立するだろう。

 

ボランティア活動を私は否定しないが、自主的にしようとは思わない。

 

それは今の私の生活の分を超えるから。

余力を何に使うかは私自身が決めることであり、他人にその領域を侵害されることを好まないから。

 

台風被害の自己満足のリツイート、拡散も良いだろう。私のタイムラインにも随分流れてくる。だが、もっと別の形でできる事があるんじゃないだろうか。

 

私ならば、タイムラインをにぎわすよりも、千葉に住んでいる人に必要な情報を繋ぐDMをするなりなんなりするけれども。

或いは公的機関に繋ぐか。

 

少し考えれば、もう少し相手に伝わるベストな解にたどりつけそうなものをちょっとの手間を惜しむから自己満足なのだろうと言われてしまうのだ。

 

まあ、皆自分の事で精一杯なだけ、と言う話であり、

 

他力本願は良くないよね、助けたいならば本気で助けるために出来る事を相手に伝わるベストな形でしようね、と言う話。

 

何にも出来ないしていない私には本来ならば語る資格は無いのだけれども、本気で誰かを助けたいと思っている人々がベストなやり方を見つけられるように鼓舞してみたり、煽ってみたりしたりしてみている。

 

何故ならこれが私の精一杯だから。

難民問題考

いずれの時にか難民問題が出てくるかもしれないなと思う。

 

某国の人々が日本に帰化するための要件がここ数年で今までよりずっと厳しくなっているようであるし。

 

どの民族で生まれるかは選べない。

 

だが、どの民族で生まれてきたとしても、祖先を敬い感謝し、違う民族にリスペクトを持つ必要はあるだろう。

 

韓国人だと言うだけで、ヘイトするのは良くないが、彼らは非常に面倒くさいのでかわいそうだから仲良くしましょうと、甘い顔をしてはいけないと思う。

 

依存心と怨嗟の感情が強い国民性を有しているのだから、適切な距離で仲良くするべきだ。

距離さえ間違えなければ彼らは非常に温かく、真面目であるのだから。

 

私は仲良くする為に、距離を置くべきだと考えている。

 

中国では様々な少数民族弾圧の事実がある。

今現在も、ナチスによるユダヤ人ヘイトと同じ、或いはより劣悪なことが行われている。

 

https://togetter.com/li/1398032

 

https://www.google.co.jp/amp/s/www.asahi.com/amp/articles/ASM7B2TQDM7BUHBI00T.html  

 

https://www.amazon.co.jp/高僧の生まれ変わり・チベットの少年-イザベル-ヒルトン-Isabel-Hilton/dp/4418015167

 

パンツェン・ラマは恐らくこの世から消えた。

ダライ・ラマは彼が最後の一人になるだろう。

 

愛を信じすぎたが故に、人の醜さをその醜悪さを知らなすぎた為に。

 

私は移民の受け入れに反対する立場をとる。

 

移民を受け入れられる程現在の日本は成熟していないし、豊かでは無いから。

 

誰かを助けたり、受け入れる為には余力が必要である。

 

それが今の日本にあるとは思えない。

救いを求めてくる人々はそれこそ命がけだから必死にしがみついてくるし、

 

誰かを助けて誰かを救えないとなった時に、その判断が必要になった時に、

その重圧に耐えられない日本人がどれだけいるのだろうか。

 

杉原千畝の行為は素晴らしいものであるが、それは当時の世界にまだ難民を受け入れるだけの余剰があり、かつ、彼らが世界各国に散らばることが出来たからである。

 

(ちなみに私は、樋口季一郎も同じくらいかそれ以上に評価されるべきだと思っている。

 

https://bushoojapan.com/tomorrow/2019/08/20/103374

 

今彼らと同じ行為を外交官がしたらどうなるのだろうか。

それを受け入れるだけの余裕がある国は存在するのだろうか。

その行為は善意の国を苦しめはしないだろうか。

しかしながら、そこまで考えた上で行動しなくてはならない。

 

私は移民が存在しない世界を願ってやまない。

 

誰もが生まれた場所で、先祖や自分の民族に誇りを持ち、互いにリスペクトしながら生きる事が出来るようになるべきだし、そうなって欲しいと思う。(あんまりにも不便な場所は考えものだけれど。)その上で、自由に行き来しながら住む場所を自由に決めて行けると良いなと思う。

 

韓国人には、他民族と比較する事をやめ、自分の民族に誇りを持ち、今の難解な状態から自分達の力で立ち直って欲しいし、難民として他国に依存しないで欲しい。

愛国心はその時に発揮して欲しい。

他国と比較しなくても、素晴らしい部分がきっとあるだろうから。

 

ただ、今弾圧を受けている少数民族に関しては根絶やしにされる前になんとか受け入れ先が無いものか、日本でも受け入れられないか考えてしまう。

彼らは土地と民族である事を奪われ侵害されているのだから。

 

恐らく難民が増えるであろう世界の中で、民族の在り方を考えてしまう。

 

日本人に生まれた事を恥じて、悲しむ事なとないように、誇りを持ち生きていきたい。

 

そして、同じようにどの民族であっても、その出自如何に問わず、恥じる事、悲しむ事などあってはいけないし、そう思わせてはならないと思う。

 

香港の人々が何を恐れているのか。

アイデンティティの為に、迫りくる民族浄化アパルトヘイトから逃れる為に、知的に冷静にでも情熱的に。

 

今夜もまだきっと香港は燃えている。

ミネルヴァの梟は黄昏に

ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛び立つのであるが、最近の怒涛の時代変化を見て感じているとああもう、哲学者でいてはならないのだなと思う。ミネルヴァの梟が飛び立つ頃には今あるものは全て消え去っているのだろうから。

 

それはサバイブする冒険者のようでもあり、たった一人頂きに立ちその道を究めんとする求道者たれと急き立てられているようにも思えて、ああ面倒だなあと思う。

 

子宮教教祖様のマルシェが開催され、どうも好評だった様で。

 

まあ、可愛くて楽しくて趣味の範囲で無理なく過ごせるのであれば個人の自由であろうし、不幸な沼にはまらないのであれば、周りに迷惑をかけないのであれば、どうぞご自由に。

 

私はクラフトワーク楽しい、マルシェが楽しいと言う事を否定するつもりまでは無いし、

 

教祖様をあげもうし、教祖様全てを肯定し、社会から逸脱したり、迷惑をかけたり、ハマりすぎなければそれらはむしろ良いことのようにも思えるから。

 

正直、子宮系マルシェよりもどこかの湖のほとりのヒッピー系のフェスの方がよっぽどヤバイしなあ、と。ガチで宇宙と繋がる系…的な…意味で…。

 

だからと言って彼女が壱岐市で政治家をやればいいとは思わないし、彼女が信者様を小馬鹿にするような商売をしている事を肯定しようとは思わない。

 

子宮系と言う概念の元にみんなで楽しくワイワイするくらいなら、そんなに害はないんじゃない?程度の肯定はするものの、

 

やはり、教祖の元に集い人に迷惑をかける事を良しとするのは良くないと思う。

 

私は最近香港の友人と連絡が取れず心配している。だが、一方で中国人の友人と下らない話をして笑い、SNSを通じて様々な話題について議論する。

様変わりしてしまった韓国の友人とはなんとなくぎこちなく、以前よりも距離を感じる。彼は賢しい人だから、何か感じるところがあるのかもしれない。

 

国と人とは違うとは言え、人が集まって国が出来ているのだから、やはりどこか繋がっている。

 

スペクトラム。或いは、絶対閾など無いのだろう。

 

これと同じように、似非スピリチュアルだろうと、教祖様ビジネスだろうと全てを否定する必要は無いと思う。

 

まあ、大枠悪い上に内情はドロドロしているんだろうけれども。

 

本気で子宮だの宇宙だのと繋がりたければ、ヒッピー界隈とも繋がりそうなものだけれども、繋がらないあたりが似非スピリチュアルっぽいライトさだよなあと思う。

 

因みに、ヒッピーの友人はいるけれども、私はヒッピーではない。悪しからず。まあ、あの界隈もアヤワスカとか鼻煙草とか体に悪いと思うし、実際に結構キツイらしいので、お勧めしない。

せっかく肉体があるのだから損なうことはなるべく避けたい。

 

アングラに潜るかくごもなく、健康を害さず、ライトにスピリチュアル、ビジネスごっこを楽しんでいるのならば、それまで取り上げようとは思わない。周りに迷惑をかけなければ、子供がごっこ遊びをしているのを邪魔しない心境に近いかもしれない。

 

どうぞご自由に。

 

私達ひとりひとりが曖昧さと多面的な価値観を有する事が当たり前の社会になるだろうし、その為には個としての確立が急務だというだけの話。

だから、吉本よりも。

休みの日にこんこんと眠ることがここ2週間ほど続いている。

 

もともと私は不眠症傾向がある人間なので非常に珍しいのだが、激務や資格試験の準備のために体が眠りを欲しているのだろうなと思ってしばらくは放っておいたのだが、眠すぎて吐き気がするという稀有な経験をした為渋々眠気がきたら眠るようにした。

 

寝ても寝ても寝足りないとか思春期かはたまた成長期かと思ったが、まあだいぶ回復してきてよかったなあと思っている。

 

だいぶ頭が働きそうな感じがしてきているが、さてはて。

 

 

韓国に旅行に行った女性が韓国人男性に暴行される事件があった。

 

以前ブログでもツイッターでも少しだけ呟いたが、夏休み前に注意換気しないメディアはどうかと思ったし、その事件について流すように報道するその姿勢もどうかと思う。

 

まあ、メディアに期待なんてしてはいないが。

 

海外に行くのならば、どんなに近いところであっても、何度行ったことがあっても、自分で情報収集して、リスクマネジメントして欲しい。

 

道端でナンパを無視して襲いかかられるなんてどれだけ恐ろしかっただろう。

 

私の友人が来週から仕事でどうしても韓国出張しなければならないのだが、ミャンマー人の同僚共々英語でしか会話しないようにしようと、日本人だとわからないようにしないとと気を張っていた。

 

ビジネスで行く人間ですらこうなのだから、のんびり楽しく観光になんて行っている場合ではないだろう。

 

それでも行くなら止めないけれど。 

というかこの御時世にいこうとするなら、それなりの覚悟と理由があるのだろうし。

 

今はまだ個人間の問題で済んでいるが、飛行機が飛ばなければ、日本に帰ってこられないのだし、本当に良く考えて欲しい。

 

あの国の人々とそれなりにうまく付き合っていくにはコツがいるし、テクもいるだろう。

 

私には何人かその国の友人がいるが、距離感を間違わないようにいつも気をつけている。

 

適度な距離と無関心が彼らとうまく付き合うには必要であるし、必要以上に好かれると非常に厄介なので、やんわりふんわりでも時にはバッサリと切り捨てる必要がある。

 

お花畑ちゃん達は韓国人にも良い人がいる!皆んな仲良くしよう!レイシストダメ絶対!!と今日ものたまうが、みつに付き合ってみればリスカブスメンタルがデフォルト装備で一握り理性的な人もいないこともないがやっぱりめんどくさい韓国人の何を知っているのかと思ってしまう。

(例えば本人がマトモでも、友達や家族づきあいがともかくすごいので大体友達や家族がめんどくさいとか。)

 

いいとか悪いとか以前にめんどくさい。

 

京アニ被害者とマスコミについて森博嗣氏がブログでこのように書いているが…。

 

http://blog.fuyushoten.com/2019/08/blog-post_27.html?m=1

 

以下引用。

 

『爆弾テロや銃乱射事件も、社会の動揺や泣き叫ぶ遺族が見たいから行われるものです。

 

そういった「犯人側の成果」を詳細に報道することは、つぎつぎと同じような犯罪を誘発することにつながります。
 マスコミは、この点に気づいていると思います。

でも、気づかない振りをして、つぎつぎと事件が起こった方が営業的には好ましい、と考えているのでしょうか。

そう思われてもしかたがない愚行を、もういい加減にやめてほしい、と僕は願っています。』

 

こんな下らない、悲惨な被害者を被害者として置けないような報道をするくらいならば、

日本人の命を守る注意喚起をして欲しい。

 

が、マスコミにそれを求めるのは無駄である。

 

それと同じように、韓国の友人に己を省みる事や感情ではなく事実を見るように諭す事は無駄である。

 

彼らが見たいのは敵認定した人間が不利益を被る姿と、自分がいかに素晴らしいのかと、素晴らしい自分が正しいと証明される事であるのだから。

 

一方的正義が存在する民族と対話などできるわけがないのだし、そのめんどくさい坩堝に今望んで向かう人間はどうかと思う。

 

ただ勿論、どう考えても暴力を振るう人間が悪いし、理由もアホ過ぎるし、そんな頭の悪い人間が普通に道端を歩いていると考えられないのもわかる。

 

だが、海外に行くとよくわかるのだが、中国と韓国の人々のふてぶてしさと図々しさ、そして純粋なる悪意と憎悪が簡単に表面化するその沸点の低さは、正直言って大抵の日本人の想像がつかないレベルにあると思う。

(中国人のほうが幾分かスマートかつ利益重視なのはさて置き)

まあ、個人どうのではなく、あくまでも国単位で見た場合である。個別のケースは細分化されるべきであるし、無用な差別は良くないと思うが。

 

我々はそう言った悪意に慣れていない土壌で生まれてしまい、純粋なる悪意と憎悪に晒される事がなく、あまりに無知で純粋であるのだから、それをしっかりと自覚して今は、これからはしっかりと自衛していこうではないか。

 

ただ、それだけの話。