吉本芸人と反社会勢力及び情報商材界隈について

まあ、ですよね。

と思っただけである。

 

キラキラハッピー教祖様界隈の皆様。

及びアメブロスピリチュアル界隈の皆様。

 

他人事じゃあないんですよ。

本当に本当に他人事じゃないんです。

 

いいから、逃げられるなら、逃げなさい。

三十六計逃げるに如かず。

 

貴方は自分は純粋に清らかに楽しく自分を生きていると思っているかもしれない。

 

自分を生きる、ってなんて傲慢なんでしょうね。

そう思いませんか?

 

世界の全てに生かされている癖に、図々しいと思いませんか。

 

貴方が今朝口にしたコーヒーも食パンも。

 

コーヒー豆の命やら、コーヒーを運んでくれたたくさんの方々の命の時間を頂いているし、コーヒーメーカー社員の時間も、小売店の方の時間も頂戴していますね。

また、小麦の命も酵母菌の命も頂いていますよね。

 

それって当たり前ですか?

 

これ一つこの一瞬を切り取っただけでも、貴方は十分自分を生きていると言えると思いませんか。

 

貴方の命のために一瞬一秒何かの貴重な命や、誰かの貴重な命の時間を頂戴しているのだと、気付きませんか。

 

自分を生きるというのは、今まさに貴方がしていることだと、理解できませんか。

 

自分を生きるという事は、理想の自分に成り切って、理想の自分を演じながら生きる事だと勘違いしていませんか。

 

多くの命や時間を奪うだけでは飽き足らず、誰に迷惑をかけようとも、反社会勢力と繋がっているかもしれなくても、理想の自分になりきりごっこをしたいのならば、どうぞご自由になさい。

 

でも、きっと貴方は幸せになれませんし、理想の自分になんてなれませんよ。

 

理想の自分なんて貴方の頭の中にしかいませんから。

 

貴方の頭の中からは絶対に出てこられませんから。

 

皮肉なブログタイトルですよね。私は思わず笑ってしまいましたよ。

 

その通り、頭の中からは出てこれませんからね。

 

貴方のために失われた命や時間に対して有難いと思いませんか。恩返ししたいと思いませんか。それが、どんなに貴重な事かわかりませんか。

 

貴方の命と全ての命、貴方の時間と全ての時間は等しい価値を持っているはずですね?

 

それを貴方のために差し出してくれたもの達に思いをはせることはできませんか。

 

貴方のために失われたもの達に愛を抱く事は出来ませんか。

 

自分を少しでも良くしていこうと、良き学びをし、よき道を歩み、今度は自分が世のために命を時間を差し出そうと思えませんか。

 

それより自分の幸せの方が大切ですか。

 

それでも私は一向に構いませんが。

 

全てはやがて貴方の元に還りますよ。

 

貴方のしていることが貴方の元に還って来ることを受け入れる事が出来ますか。

 

 

アメブロスピリチュアル界隈には情報商材界隈が絡んでいるし、その背後には恐らく反社会勢力が見え隠れする。

 

貴方が何を選ぶかは勿論自由だが。

世の理は、知らなかったという無知すら罪に付してくるのだ。

 

警告はした。

私は私にできる範囲で情報を記しているし、再三警告をした。

 

あとは個人の責任の範疇である。

 

願わくば、良き道を。

他人を信じるという善良な怠惰

他人を信じて信じて、利用されても信じて、信頼し続けた結果、奈落の底に立たされていて、自らの墓穴を掘っていただけという話がある。

 

気の毒だと思うだろうか。

 

弱者を守れ論を語る人々はまた情緒的に反応するかもしれないのだが、私は、他人を信じ続ける事もまた怠惰な側面があるのだということを記しておきたいと思う。

 

正直今まだキラキラハッピー教祖様界隈にいる人々はこの状態であるのではないだろうかと予測しているので。

 

誰かを信じ続ける事は、暴論を語れば自分の思考や選択を手放すことにも等しい。

 

信じ続ける事も勿論大切ではあるのだが、信じ続ける事だけを美徳としていたり、ナルシスティックに信奉しているのであればこんなに馬鹿馬鹿しいことはないと思う。

 

信じるというのは、他責にしていい理由にはならないし、信じた自分に責任が生じる行為だとゆめゆめ忘れる事なかれ、と思う。

 

キラキラハッピー教祖様や設定変更ラグジュアリー教祖様を信じるのをやめてしまったら、あと少しで手に入ったかもしれない幸せを逃す事になるんじゃないかな?

 

や、そもそも疑う事が引き寄せや設定変更出来ていないからなんじゃないかしら?

 

等。まともな理性からの警笛が聞こえていても聞こえないふりをして、純粋に信じることのみに固執しているのであれば、それはもう自分で考える事を辞めている何よりの証しだろう。

 

勿論、何を選ぶのかは自由なのだけれども。

 

自分が墓穴を掘っていたとハタと気がついたときには生き埋めになるしか選択肢がない事もあると言うことをゆめゆめ忘れる事なかれ。

 

結局のところ、幸せの予感は予感でしかないので、今すぐ幸せになれないのであれば、幸せは手に入らない。

 

人間とは不思議なもので、幸せの予感を感じている時が一番幸せなのだ。だから麻薬的に教祖様界隈には人が集まるし、いつまでたってもぐるぐるぐるぐる同じところに居続けるのだ。

 

とは言えこの地球には重力もあるし、万有引力もあるので、同じところをぐるぐるしていれば、地面に穴があいてくる。

 

自分の足で前に進もうと一歩踏み出さない怠惰が墓穴掘りに繋がるわけで。

 

まあ、今はどうしようもないのだろう。

よき学びを。

平山夢明氏が映画になる狂気

平山夢明氏の小説が映画になるなんて世も末だなと思った。

 

https://eiga-board.com/posts/2112?p=4

 

監督は蜷川実花女氏とのことで、かなりおしゃれでスタイリッシュ、悪く言えばソフティケイトになるのだろうが、(予告のバイオレンスサスペンスって…キチガイスプラッタ祭じゃないのか、という時点でお察しである。)

実話怪談シリーズや、東京伝説シリーズを狂ったように読んでいた私としてはやべえ時代だぜとしか思えない。

 

実話怪談を復興に導いた天才、人間こそが怖いと記したサイコパスが日常に潜む恐怖を描く東京伝説シリーズを作り上げた鬼才。

 

トラウマレベルでハマる。

私が中古本を売りに行った時に驚くような高値がついたのだが、よく考えたら氏のシリーズを全て保管していたのだから、まあ、さもありなんである。

ちなみ全て初版、帯付き美品です。

 

彼の才能は人の生理的な不快感や根源的な恐怖、嫌悪感を直視し、事実として淡々と記す面にある。大抵の不可解な体験や不可思議な経験というものは因果がない、というか、わからない。いつも通りの日常を過ごす中でいつのまにか絡め取られているものである。不条理で理不尽。ただ、これが現実だと思う。

 

スピリチュアルキラキラハッピー★という風潮の中でこんな事を記すのもどうかと思うが、私が思うに、スピリチュアルのキラキラハッピーの裏側には、平山夢明氏の実話怪談シリーズや、東京伝説シリーズのような理不尽で不条理な恐怖や嫌悪感が潜んでいるように思う。

 

光が強ければ影もそれだけ濃く強いのである。

 

理不尽で不条理で不可解な体験は、究極的には自分の責任であるのだが、それはあくまで究極的な話であって、やはり理不尽な不条理な不可解な出来事は受け入れがたいと思うし、そこから脱けだすのは至難の業である。

 

覚悟を決めて腹を括るだけなのだが、それがなかなか、難しい。というか、それができないから、そんな事になっているわけで。

 

私は常々エセスピリチュアルには関わるなと記しているが、理由としては、

金銭的ダメージや精神ダメージ、詐欺的な搾取への憤懣もさる事ながら、

 

中途半端にガチスピリチュアルに関わらざるを得なかった経験から、

 

スピリチュアル的ミスがどれだけ恐ろしく、

どれだけおぞましく、

どれだけ面倒で傷つかなくてはならないのか、それでも死んでしまっては元も子もないので、死すら逃げ場にならないという絶望のもとパンドラの箱を全開にして

全ての災厄を直視しなければならないのかを知っているので

 

できるだけしなくて良い経験ならばして欲しくないという老婆心もある。

 

何を選ぶのかは勿論自由なのだけれども。

 

パンドラの箱の底には勿論希望がある。

ただそれはあくまでも希望であり、希望でしかない。

希望を胸にまた歩き出し幸せにならなければならないのだ。  

 

必要ない廻り道ならしなくて良いじゃないか。

面接バレエちゃんと挫折について思う事

https://togetter.com/li/1362243

 

数日前に少し話題になっていた面接バレエちゃん。

 

「面接でバレエの件に触れられて傷付いた方、世の大人達にボコボコにされているが、個人的にはとても立派だと思うよ。

自分の傷を言語化し、他者を口汚く罵らず、特定されたくないからと捨て垢にしたと認め、向き合う為に試行錯誤する。

 

罵倒だけは上手い良い歳した大人達よりよっぽど成長するのでは。

 

先に経験したが故に語れる言葉があって、「何故 面接でバレエの件を尋ねたのか」を説明している人達は正にそれ。

 

それは先に社会に出て採用する側の立場を理解しているから出来る事で、まぁ有難いけれど別に偉くもなんもないです

。出来て当たり前の事なので。

 

それより内省できる器のがよっぽど賢明。」

 

という意見もあり、そうだよね、これはこれで大切な事だよね、と思うが。

 

おそらくそもそも論として、彼女に対して厳しい言葉を投げかけている方の多くは馬鹿にしているからとか、叩きたくてそのような意見を記しているのではなく、内省して欲しいから記しているのでは?と思うので、

内省できるのもまた当たり前なのでは?とも思った。

 

罵倒している方もいらっしゃるのだろうか。

ちゃんと見ていないからわからないけれども。

 

まだカサブタのままの傷口に塩を塗られたような気持ちになって辛かったんだろうなと思う。

それだけ心血を注いできて、一生懸命頑張っていたのだと思う。

 

ただ、面接の目的を理解していないなと思うし、企業側の立場や聞きたいことに対して応える事が出来ないのであればいずれにせよ彼女は傷つかなければならなかったとも思う。会社や組織や社会というのは基本的にシステムなのだから。

 

面接にはルールがあるし、そういったシステムなのであり、

組織の構成員としてどれだけ頑張る気があるか、適性はどうかが見たいのであって、他人のトラウマに対して配慮するという情緒的側面はない。

いちいちそれに対して配慮せよと言う人々は、何か勘違いをしていると思う。

 

勿論、組織に理不尽な事を強いられるのであれば抗うべきだし、不服を申し立てる必要はあると思うが、挫折を乗り越えているかどうかもわからない人間を雇うのは会社にとって非常にリスキーだと思わないのだろうか。

 

知りたい事を質問して傷ついたとかパワハラ論をもちだされても、いやいやそもそもルールや目的わかっているの?と言いたい。

 

ドッジボールでボールを当てられて傷ついたと言われる事と同じである。そういうゲームなんですよ、としか言えない。

 

痛かったり、怪我をしたりした部分に痛かったね、大変だったね、と共感する事もわかりやすい優しさで必要だと思うけれども、いや、そもそもドッジボールだからね?と言われてしまうのも仕方ないのではないだろうか。

 

あいつがボールをぶつけてきたのだ、と言われた面接官の気持ちになるとどうにもねぇ。

 

 

それを知らなかったのならば仕方ないと思うし、今後は対策をとる事が出来るだろうから頑張って欲しい。

 

新入社員の叱り方という漫画を見た時も思ったのだが、何故配慮され、共感されて当たり前だと思うのだろうか。

 

目の前の方に対してこうして欲しい、ああして欲しいばかりで、自分がこうしよう、ああしようにならないのは精神的に未熟だからなのだろうが、非常もったいないなと思う。

 

同時になんて若いのかしらとも感じる。

 

人を変えるのがどれだけ大変か、いや人というのはそもそも変えられないのだと言うことを知らないのだなと思う。

 

まあ、何年かしてみれば、そんなこともあったなあと笑い話にできるのであろう。

 

弱い人が弱いままで何故悪いと開きなおり、ああしろ、こうしろと言う事ほど図々しいことはない。

弱者は守るべきだ論というのは、弱者の可能性を取り上げる可能性もあることを忘れてはならない。

 

また、弱い事と病は切り離して考えるべき問題である。

 

義務を果たさず、権利だけ主張するのは自らを貶める行為である。

 

まあ、それが若さなのかもしれないけれども、未熟にばかりはならないようにと願ってしまう。幸多き道を。

タピオカ屋に見るブランド価値

タピオカ屋についてのコメントが話題になっていた。

 

「美味しいけどなんか厨房におじさん居てちょっと…割と…嫌だった…誰なんだろ、店長、、?せっかく内装とか可愛いのに…」

 

との事で。

 

めちゃくちゃ笑わせて頂いた。

丁度先日某タピオカ屋の社長と話す機会があったから余計に面白かった。

もしくはこのツイート、先日記した広告屋の仕業かも知れない。ツイート数も少ないしねぇ。

まあ、なるほどそれならうまい商売である。

 

それかどうかは知らないし、わからないが。

 

そうでなければ、失礼だと思うので、謝罪をしたい。違ったらごめんなさい。

 

タピオカ屋は渋谷原宿表参道をふらふらしていると3畳ほどの小さなテイクアウト中心の店舗が嫌というほど目に入る。

 

甘い飲み物があまり好きではない上に、無理してチビチビ飲んでいれば時間が経つとタピオカは固くなるので飲みにくくなるし、そもそもぬるくなるとより甘くなるしで、私とはあまり相性が良くないのだが、若い子たちが小さな店の前で並んでいる様を見ると可愛いなあ、そんなにいいものなのかしらんと思う。

 

自分の魅力を引き立てる小道具として良い感じなのか、見た目が可愛いからなのだろうか。

 

タピオカ屋はブランディングに成功した良い例だと思う。ブランディングに成功すれは、そのブランドに自然に引き寄せられるセグメントが必ずいる。

 

若者をターゲットにインスタ映え、可愛い、店ごとに見せる世界観が違う、意外と種類が多いなどコレクター精神を刺激するような作り、アジアンテイストでお洒落…。引き寄せられたセグメントに対してブランディングを細分化していく事により、更にバリエーションが増えていく。セグメントも、顧客も飽きない。

飽きられたとしても逃げ切り商売なので構わない。

 

まあ、うまくやっているよねぇと思う。

 

それに引き換え、最近のアメブロスピ教祖様方ときたらブランド価値の目減りが激しすぎる。

自分で自分のブランドにけちをつけるような事ばかりしていて、心配になるくらいだ。

 

タピオカ屋と同じようにたいして原価がかかっていないのだろうからこそ、ブランド価値については気を配らねばならないのに。

 

キラキラハッピー教祖様、本日渋谷のクラブでイベントなさるそうで。

小室哲哉がファミレスで打ち上げするのと同じような悲しさ侘しさが漂っている。

 

あと、結構渋谷好きなんだなあと思うのだが、渋谷を選ぶ時点でアラフォーに近いアラサーなんだなぁと年齢を感じてしまう。端的に言ってしまえば、場所選びからちょっとダサいよなあということ。

 

ブランド価値が下がり気味だし、センスが時代とズレている。

 

別に彼女が何をしようと、歌おうと踊ろうとあまり干渉するつもりは無いのだが、もう普通にOLしたり、主婦したり、パートや派遣をしたほうが良さそうな気がする。

 

だって、どんどん痛々しくなっているから。

 

スポットライトを浴びなくても良い人生は送ることができるし、身分不相応なスポットライトは身を焦がすだけ。

 

舞台の上に立っていると思っているのはあなた1人かも知れない。

 

客観的に自己を見る力を養っていこう。

 

マーケティングに必要なのは煽動する力ではなく、市場を冷静に見る力なのだから。

魔女と魔女のなりそこない

五十嵐大介氏の作品であれば、魔女が最も好きな作品である。

家の庭先にビニールシートを引いて暇さえあれば何度も読み返していた。草いきれや土の香りのする中で、太陽の暖かさを背に感じながら。

 

五十嵐大介氏の作品は何というか、自然の中で何度でも読み返したくなる。

アニミズム的な美を感じる人々も多いようだが、もっと原始的な荒々しさを内包しているようにも思う。

美という言葉の中に含まれる洗練された感じは一切なく、複雑に織り込まれた刺繍や緻密な点描画のような不協和音の中にある大きな流れを感じる。

 

まあ、そんな事はどうでもいいのだが。

 

魔女の中で、魔女とは自分のなすべき事を知っているもの、というのがあった。

 

スピ界隈に沸く教祖様方は魔女のなり損ないである。

 

自分のなすべき事を知っているようでまるで理解していない。あるいは理解した上で、そんなちっぽけなものになどなりたくないと見ないふりをする。

 

身の程知らずと言えばそれまでなのだが。

 

魔女の器を携えていても、それを望まない人間が多くいる中で、随分と羨ましい事であると思う。

 

人と異なる能力を持つものや、スピリチュアルからどうしても逃げ切れない人間というのは、私の予想では非常に罪深い人間というか、魂というか、心というかが、何かがあると思っている。

 

普通に、善良に、皆と同じに優しく穏やかに生きる事を許されないというのは、どうしようもない疎外感や孤独を生み出すし、それを抱えていてもなお、優しく穏やかである事を望まれる。

 

孤独でも、迫害されても、裏切られても、阻害されても、誰も恨まず、憎まず、周囲に感謝し、愛のみを与え、為すべき事を淡々と為していくしか許されない。

 

ある種の生を楽しめない罰を受けているようにも思える。

 

スピリチュアル教祖様達はその辺をわかっているのだろうか。

 

アニミズムを肉体で理解しているのならば、スピリチュアル教祖様方のような活動は絶対にできないと思う。飲み込まれてしまう恐怖が無いのだろうか。

それを全は一、一は全のワンネス思考、絶対愛とか安心とか言っている教祖様もいるが、それはあくまでも肉体を持たない精神的あるいはエネルギー的な視点の話である。

 

とはいえ私達は肉体を持ち、思考も感情もわからない他人同士が何とかかんとか互いに繋がり、コミニュケートしながら僅かに微かにでも複雑に交流しあい、なんとかかんとか生きているのだから個体としての自己が消える恐怖をしっかりと体感すべきだろう。あくまで私達は目の前の現実をサバイブしているのだから。

 

まあ、恐怖によって自己中心的になるのであれば本末転倒でもあるが。

 

精神世界なんてものは高尚でもなければ美しくもないだろう。とにかく道理や理に則り展開されているだけなのだから、憧れる必要はないだろうと私は思う。

精神世界にどっぷり浸かる時間があるのならば、その時間を漫画にでも使えばいいと思う。

物語はいつだって言葉にならない世界の秘密を内包しているものだから。

 

教祖様が自滅するのはまあ理であるから仕方ないし、私は私の心を磨くしかないのだから、本来ならば記す必要もない事なのだけれども、必要な人がいるかもしれないので、覚え書きとして。

 

畑で草取りをするおばあちゃんや、電車で泣いた子をあやす母親、疲れた顔をしながら働くサラリーマンのほうがずっと魔女に近いし、世界の理に近いのだろうなと、私は思っている。

 

まあ、ミスリードが怖いので、あくまでこれは私の一見解ということで。

 

真実はそれを伝える役割の人に聞いてくださいな。