他人を信じるという善良な怠惰
他人を信じて信じて、利用されても信じて、信頼し続けた結果、奈落の底に立たされていて、自らの墓穴を掘っていただけという話がある。
気の毒だと思うだろうか。
弱者を守れ論を語る人々はまた情緒的に反応するかもしれないのだが、私は、他人を信じ続ける事もまた怠惰な側面があるのだということを記しておきたいと思う。
正直今まだキラキラハッピー教祖様界隈にいる人々はこの状態であるのではないだろうかと予測しているので。
誰かを信じ続ける事は、暴論を語れば自分の思考や選択を手放すことにも等しい。
信じ続ける事も勿論大切ではあるのだが、信じ続ける事だけを美徳としていたり、ナルシスティックに信奉しているのであればこんなに馬鹿馬鹿しいことはないと思う。
信じるというのは、他責にしていい理由にはならないし、信じた自分に責任が生じる行為だとゆめゆめ忘れる事なかれ、と思う。
キラキラハッピー教祖様や設定変更ラグジュアリー教祖様を信じるのをやめてしまったら、あと少しで手に入ったかもしれない幸せを逃す事になるんじゃないかな?
や、そもそも疑う事が引き寄せや設定変更出来ていないからなんじゃないかしら?
等。まともな理性からの警笛が聞こえていても聞こえないふりをして、純粋に信じることのみに固執しているのであれば、それはもう自分で考える事を辞めている何よりの証しだろう。
勿論、何を選ぶのかは自由なのだけれども。
自分が墓穴を掘っていたとハタと気がついたときには生き埋めになるしか選択肢がない事もあると言うことをゆめゆめ忘れる事なかれ。
結局のところ、幸せの予感は予感でしかないので、今すぐ幸せになれないのであれば、幸せは手に入らない。
人間とは不思議なもので、幸せの予感を感じている時が一番幸せなのだ。だから麻薬的に教祖様界隈には人が集まるし、いつまでたってもぐるぐるぐるぐる同じところに居続けるのだ。
とは言えこの地球には重力もあるし、万有引力もあるので、同じところをぐるぐるしていれば、地面に穴があいてくる。
自分の足で前に進もうと一歩踏み出さない怠惰が墓穴掘りに繋がるわけで。
まあ、今はどうしようもないのだろう。
よき学びを。