魔女と魔女のなりそこない

五十嵐大介氏の作品であれば、魔女が最も好きな作品である。

家の庭先にビニールシートを引いて暇さえあれば何度も読み返していた。草いきれや土の香りのする中で、太陽の暖かさを背に感じながら。

 

五十嵐大介氏の作品は何というか、自然の中で何度でも読み返したくなる。

アニミズム的な美を感じる人々も多いようだが、もっと原始的な荒々しさを内包しているようにも思う。

美という言葉の中に含まれる洗練された感じは一切なく、複雑に織り込まれた刺繍や緻密な点描画のような不協和音の中にある大きな流れを感じる。

 

まあ、そんな事はどうでもいいのだが。

 

魔女の中で、魔女とは自分のなすべき事を知っているもの、というのがあった。

 

スピ界隈に沸く教祖様方は魔女のなり損ないである。

 

自分のなすべき事を知っているようでまるで理解していない。あるいは理解した上で、そんなちっぽけなものになどなりたくないと見ないふりをする。

 

身の程知らずと言えばそれまでなのだが。

 

魔女の器を携えていても、それを望まない人間が多くいる中で、随分と羨ましい事であると思う。

 

人と異なる能力を持つものや、スピリチュアルからどうしても逃げ切れない人間というのは、私の予想では非常に罪深い人間というか、魂というか、心というかが、何かがあると思っている。

 

普通に、善良に、皆と同じに優しく穏やかに生きる事を許されないというのは、どうしようもない疎外感や孤独を生み出すし、それを抱えていてもなお、優しく穏やかである事を望まれる。

 

孤独でも、迫害されても、裏切られても、阻害されても、誰も恨まず、憎まず、周囲に感謝し、愛のみを与え、為すべき事を淡々と為していくしか許されない。

 

ある種の生を楽しめない罰を受けているようにも思える。

 

スピリチュアル教祖様達はその辺をわかっているのだろうか。

 

アニミズムを肉体で理解しているのならば、スピリチュアル教祖様方のような活動は絶対にできないと思う。飲み込まれてしまう恐怖が無いのだろうか。

それを全は一、一は全のワンネス思考、絶対愛とか安心とか言っている教祖様もいるが、それはあくまでも肉体を持たない精神的あるいはエネルギー的な視点の話である。

 

とはいえ私達は肉体を持ち、思考も感情もわからない他人同士が何とかかんとか互いに繋がり、コミニュケートしながら僅かに微かにでも複雑に交流しあい、なんとかかんとか生きているのだから個体としての自己が消える恐怖をしっかりと体感すべきだろう。あくまで私達は目の前の現実をサバイブしているのだから。

 

まあ、恐怖によって自己中心的になるのであれば本末転倒でもあるが。

 

精神世界なんてものは高尚でもなければ美しくもないだろう。とにかく道理や理に則り展開されているだけなのだから、憧れる必要はないだろうと私は思う。

精神世界にどっぷり浸かる時間があるのならば、その時間を漫画にでも使えばいいと思う。

物語はいつだって言葉にならない世界の秘密を内包しているものだから。

 

教祖様が自滅するのはまあ理であるから仕方ないし、私は私の心を磨くしかないのだから、本来ならば記す必要もない事なのだけれども、必要な人がいるかもしれないので、覚え書きとして。

 

畑で草取りをするおばあちゃんや、電車で泣いた子をあやす母親、疲れた顔をしながら働くサラリーマンのほうがずっと魔女に近いし、世界の理に近いのだろうなと、私は思っている。

 

まあ、ミスリードが怖いので、あくまでこれは私の一見解ということで。

 

真実はそれを伝える役割の人に聞いてくださいな。