花恋し、人恋し、僅かばかりの死を持って

『人間』

 

ひとをにくむなかれ 

にくむこころは はりねずみ 

サボテンのとげのいたさである
ゆるしてやれ いたわってやれ
ひとのにくたいの一部には 

どうしても消えぬ臭い所がある 

それがにんげんが神でない印だ
ゆるしてやれ いたわってやれ

 

とは原田種夫の詩である。

 

しかし、死の直前彼はこのようにも記している。花恋い、人恋いより。

 

「人間は心の裏は見せはしない。

 

だが、わたしが、米寿の会の前々日、心筋梗塞で倒れると唾もひっかけず、向こうを向いて、わたしを粗大ゴミと同一視したご仁がたくさんいる。

 

利用される間だけ、わたしにべったりで、役に立たぬ、効用なしと見るや、本性をあらわした鬼がいる。

 

仮面を知らぬわたしが愚か者だった。


神でない人間には、肉体の一部に、どうしても消えぬ臭い所がある。それが、神と人間の区別なのだ。わたしは、久しく幽閉されて、はじめて人間の真実を見た。

 

人間とは、怪しいものだ。

 

悪魔と同居していて、他人のことなど、かえり見る暇がなく、自分のみを大切に扱う動物だ。

 

人が泣こうと、人が苦しみもだえようと、人が死のうと、路傍の草のそよぎとしか思わないのだ。

 

それが、人間の正体なのだ。

哀しい人間よ、さびしい人間よ。

 

無常を知らぬ人間は倖せだ。

風にゆらぐ草の葉だ。

 

それゆえにこそ、人間が恋しい。人よ、わたしを振り捨てないでくれ。ああ、人が恋しい。」

 

死を間近に感じた時に、人は人の無邪気な無情さを薄情さを感じる。

 

それこそが人が人である由縁である。

 

それでも人を愛おしいと思ってしまうのもまた、人が人をたる由縁であろう。

 

どんどん時は流れるし、どんなに素晴らしい時間も体験も、目の前から消えてしまえはまるで粗大ゴミのような価値しか持たなくなる。

 

私達は初めから自分達の心しか持たずにこの世に生まれてきたのだから、それ以外のものはいずれの時にか粗大ゴミにしかならない。

 

だからこそ、心を眺め、心を磨き生きていくしか無いのだよなと思う。

 

私は死が間近にあったことがあるので随分とこの気持ちがよくわかる。

 

ああ、皆一時は悲しむけれどもきっと大丈夫なのだな、人とはなんて薄情で、でもなんと健気なのだろうと、真っ白な天井を見上げながら思ったものだ。

 

いよいよ本当にまずいかもしれないとなった時には、死にたくない、まだ私は何にもしていない、世界よ私を捨てないで、とも思ったのもまた人らしいと思う。 

 

まあ、そんなわけで私は彼の随筆に非常に共感を覚えるのだが、今を精一杯生きている人々には全く理解が出来ない心象風景なのかもしれない。それもまた神の福音だとは思うけれども。

 

再三記しているが、私はスピリチュアルは本当に縁が無い限りは足を踏み入れるべきではないと思っているし、

キラキラ起業も自己啓発も必要にかられないのであれば、やめておきなさいと言いたい。

 

それらは全て明日もまた自分があると思っている驕りの上での選択なのだから。

 

よりよくなりたいと言う事は明日もまた同じような毎日が当たり前にあるのだという図々しさを内包しているのだから。

 

勿論、向上心を否定しているわけではない。

 

キラキラ起業や自己啓発の問題点は、論点をすり替え、今までの自分を否定したり無かったことにする部分にあると思う。

向上する為には今の自分をありのままに見ることが必要で、そこには好き嫌い駄目良い悪いと言う感情を付随させてはならないのに、どうもその辺の最も大切な部分がすっ飛んでいるように思う。

 

単純なスキルアップではなく、まるで生まれ変わりを望むような部分が問題なのである。

 

明日生まれ変わったとしても、結局は自分の生まれ変わりでしかない。

 

自己啓発するくらいならば、行動をかえた方が早い。

 

まあ、愚かでいられる事もまた幸せの一つの形であろうから、外野からやいのやいのと語るのもどうかなと思うが、それもまた一つ人の愚かさと言う事で。