憐れなサーカスと見世物小屋の王様

 まずはこちらをご覧ください。

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ユキさんの素敵な文章で裸の王様達の奇妙さがありありと浮かび上がる。

 

見世物小屋の王様達が本当に王様だと自分達で信じ込んでいる事。

なんだかいっそ憐れだなあと思う。

 

キラキラハッピー教祖様の最近や、ピンクの脚本家の方の歌はまさにその通りで、ああ最近どうして彼女達を眺めれば眺めるほど心が痛むのかようやっとわかったような気がした。

 

世の中に見捨てられている事に気づかずに、襤褸を着たまま、檻の中で王様然としているのが観ていられないのだ。

 

檻の中では見世物小屋の王様。王様は本当に自分が王様だと思い込んでいる。

私達はそれを外から指差して笑って観ているのだ。

その可哀想な身の程しらずさを、夢や自分らしさという言葉に置き換えてはしゃぐ軽すぎる愚かさを。

 

なんて残酷な行為なんだろうと思う。

でも、それを彼女達は選んでしまったのだから仕方ない。彼女達はそれを望んでしまったのだから仕方ないのだ。

せめて、永遠に幸せな夢を見続ける事が出来ますように。

 

スカートの裾には火がついている。

王様の懐は火の車。

 

燃え盛る炎を眺めながら、断末魔の叫び声すら見世物になるだろう。

だって、そこは見世物小屋の檻の中なのだから。

 

見世物小屋が焼け落ちたなら、私達は方々温かい場所に帰っていくだろう。

朽ち果てた見世物小屋の事なんか忘れてしまって。

 

まあ、サーカスにしろ見世物小屋にしろ興行主がいるわけで。適当に稼いだ興行主はサーカスのテントに、王様のスカートの裾に火をつけてトンズラこくのだろう。

逃げ遅れないように何人かの部下を置き去りにして。

 

札束を数えて興行主は、次のイベントを企画する。そうやってエンターテイメントは廻っていく。

 

退屈で安全で愛しい私達の人生のちょっとのスパイスとして、興行主は私達に提供してくるのだ。今度こそ!本物の極上なエンターテイメントですよ!!と嘯いて。

 

彼女達の哀れで奇妙で滑稽な無様で下品な人生は消費されていく。

 

電通ブログの女王はコンテンツとしての価値が擦り切れて、殆ど価値ある部分が残っていない。興行主は彼女に見切りをつけ始めている。

 

300万円設定変更教祖様は今が旬の食材で、でも良くある食材だから最安値で買い叩かれる。

 

キラキラハッピー教祖様は糸が切れた人形だから縺れた糸が絡まって空回り。糸の絡んだ人形は価値がないから誰もいらない。

 

子宮教教祖様は本物の人形になってしまった。

僅かばかりにあった可愛らしさも失って、たるみのひどいフェイスラインは、大好きな都内だったならば直ぐに手当てやお直しが出来るのに、もう手遅れだ。

 

それはそうだろう。あんな保湿しかできないようなクリームじゃ、海辺や山の紫外線、加齢や過酸化脂質や皮下脂肪や架橋膠原繊維に耐えられるわけがない。

 

つまり、興行主は彼女にメンテナンスをしてやる価値も必要もないと判断したのだ。

化粧品を売らせるくせに。

持ち主が変わる度、彼女の価値は目減りする。

 

興行主は目敏いから、彼女達に価値がないとわかるやいなや新たな身の程しらずを探し始める。

 

さて次の演目は?

さて次の見世物は?

 

私達は自らの残酷さを承知しながらも見ないふりをして観客を演じ続ける。

 

それは興行主の思い通りなのだけれども、私達に不利益は一切ない。

 

小さな正義感や倫理観はエンターテイメントを楽しむためには不要なのだろう。

 

良き人間になりたければ、心の鏡を磨き続け、その姿を写さねばならないのだけれども。