軽やかに生きる

マスコミやらエンタメ業界が反国、反社会的なのは皆様重々ご承知の通りであるのだが。

 

(テレビでは吉本会見どうのをやっているようなのだが、何ぶんテレビを見ていないので…。と言うか、何を今更。反社と繋がっているのは皆様承知でしたでしょうに。スピ界隈と一緒で表だっては言わないけれど、裏にケツモチやらキナ臭い何かがあるのは自明の理であろう。

 

でなければ、女性への暴力で先日逮捕された青森出身とされるが国籍が違う男性俳優が人気をはくせるわけないだろう。クリーンな業界なら複雑すぎる彼の背景に気を配るはずだ。人格的に優れていて、かつ才能があれば別だが、逮捕されているし。

ちなみに私は彼には俳優としての才能があると思っているので、非常に残念。やはり人格と才能は別ものである。)

 

 

そんな業界全体の雰囲気などなんのそので軽やかに生きている人々もたくさんいる。

 

最近、ずっと注目していたアーティストの作品が大衆化してしまい、

以前あった呪いのような煌めきはなりを潜め、こなれた感じの作品しか作らなくなり、

また世間的にもその路線のもののみが受けるものだから量産型の作品が増えていき…

 

なんだか悲しくなってしまった。

 

また一つ、また一人、才能が目減りしていく様を見てしまったなあと非常に残念に思った。

 

多分、時代が先に進んでしまったのだ。  

 

彼の、彼らの作品は今最も支持されていのだが中身にパワーがないから、支持している人々は形骸化した彼の、あるいは彼らの作品という名前を愛しているだけだろう。

 

またきっとそのうち、彼の、彼らの作品はどれを見ても聞いても同じように感じるようになるのだろう。

 

そんなアーティストはごまんといるし、皆がそれを望んでいるのだから仕方ないのだけれども、毎度の事ながら私は才能の灯火が消えるこの瞬間が悲しくてならない。

 

 

以前、某季節の名前の劇団でマネージャーをしていた方は、「あ、この人が主役だ。」というのがすぐにわかると言っていた。どんなにたくさんの中でも、パッとわかるのだという。

 

キャスティングする側のその審美眼たるやと話を聞きながら思った。その才能の灯火が消えてしまう瞬間はやはり切ないと言う。

 

ちなみにこの感覚を言語化するのは難しいらしい。私も自分が感じているこなれ感や大衆化による才能の目減りを言語化するのは難しいと感じている。

 

業界のしがらみや大衆の期待は正直重たいものだ。

 

その中でいかに軽やかに飄々と生きていくかが、あらゆるものの分かれ目なのかもしれない。

 

まじめに堅苦しく期待に応えて生きるのは今からの時代にそぐわないのだろう。

だから、大衆を相手にするマスメディアは虫の息になっていくだろうし、エンターテイメント業界も形が編成していくだろう。

 

少なくとも、芸能人と言う肩書きは今以上に軽く無意味なものになっていくだろうし、一方方向の発信中心のカリスマ的なアーティスト像は国民的人気者の立場を取らなくなるだろう。

 

と、いうか、現時点に置ける国民的なものじたいがうまれなくなっていくかもしれない。

 

これから社会はどんな風に変わっていくのだろうか。

 

軽やかに飄々と生きる人々がサバイブしていくのではないかというのが私の予想である。

 

自分というものがハッキリあれば、コミニュティに依存せずとも生きていけるし、滅私奉公的に働く選択だって、自分の成長に必要なコミニュティを渡り歩く選択だってなんでもできるのだ。

 

ただし、筋を通して生きること。

できるだけ、軽やかに。

旧時代的なしがらみはすべて取り去って。

 

そんな風が吹いている気がなんとなくする。

 

もう、執着は、熱狂は愛と呼べない時代が、すぐそこまで。

キラキラsnsの終焉とカルト化

吉本芸人然り、キラキラハッピー教祖様然り。

アーティスト界隈然り。

 

不自然なものに対して自然にしていく流れがあるのかもしれないなあと思う今日この頃。

 

こんな時には正義の先鋭化に気をつけていくべきであろう。

 

何が悪くて何が良いのかという線引きは曖昧なものであるし、正義ほど面倒で個人的な物差しは無いのだから。

 

もちろん、悪いことは悪いという必要はあるものの、裁くという行為は誰にしたって、それを生業とするもの以外にはその権利が無いのだから。

 

キラキラハッピー教祖様はsnsを全て消し去ったご様子で。

 

私としてはもう新規で引っかかる方がいなくなるのだろうなと思った。

情報提供の必要性がまた一つ薄れたわけである。

良かった良かった。

 

逆にいままだ彼女達の周りにいる人々は囲い込まれてカルト化していく危険があるかもしれない。

 

取り巻きたちのsnsを通じて、カリスマ性を高めていきたいと考えているのかもしれない。

ま、ご自由にどうぞ。

箱庭で静かに共食いするのは自由であるし、社会に迷惑をかけないのならばご勝手にである。

 

いずれにせよ、彼女は世間から飽きられた。

ただ、それだけの事。

 

彼女にある、ある種の親しみやすさや気軽さ、身近な存在であるという雰囲気がカリスマ性を生み出していたのに、憐れにも夢を見たのだろうと思う。

正直言って、彼女には才能も煌めきも、カリスマ性も無い。

滑舌の悪さと一方的な喋り、十人並みの容姿。

井の中の蛙的な勘違いをしてエンターテイメントの世界に入り、埋もれるタイプ。

よくいる人。よくある悲劇。よくいる鴨。

 

オーディション会場にも、事務所にもいたかいないかわからない、いてもいなくてもかまわないタイプ。レッスン料を搾取される側。

 

エンターテイメント業界なんてまさに今の震源地である。よくそこに足を踏み入れるつもりでいるなあと感心する。

 

おしゃれなカラスはカラスでしか無い。

 

エンターテイメント業界なんていうものは、夢を搾取され、食い尽くされる人々の屍のうえに成り立っていて、教祖様方とはたいそう相性が、悪そうなのだが。

 

まあ、夢を見る権利は誰にも奪うことはできないのだから、どうぞお幸せに。

 

当たり前であるが、人生は自分の思い通りにならない。

来るかわからない未来の事にばかりかまけて、そればかり考えているのは単なる妄想である。

 

妄想に囚われて目の前の事がおそろかになっている。

 

キラキラハッピー教祖様界隈にはそんな大人達が多すぎる。

 

落ち着いて。

冷静になりなさい。

 

あなたは理想の自分になり、理想の人生を歩む権利があり、それをする事ができると思っているかもしれないが、それは慢心だ。

 

あまりにも傲慢である。

 

理想の自分という亡霊のようなものに取り憑かれて、今の本当の慈しむべき自分をないがしろにするなんて、なんと馬鹿げた事か。

 

今の自分と、その周りにいる人々不在のまま人生を進めていく事の無礼さ、失礼さが何故わからないのか。

 

私が私がという欲望を暴走させ、引き寄せだの幸せだの本当の自分だのという言葉で正当化してはいけない。

 

考えなさい。

自分の愚かさと幼さに向き合いなさい。

 

私が界隈民に言いたいことはこのくらいだろうか。

 

ま、もう無駄なんだろうけれども。

 

そうだ、投票に行こう。

もっとカジュアルに投票できれば投票率は上がるのだろうが、いちいち個人情報確認や身分証明の面倒さを考えると…。

 

うーむ、主要駅で投票できるシステムがあればいいのに、とかネットでパパッとできればいいのにと思いつつも…。

 

一票の重みが変わってくるのだろう。

 

 手間暇かけたものに価値が生まれるように、わざわざ足を運んで意思表示する事が国の在り方を考えるきっかけになるのかもしれない。

 

そこまでする意思がなければ国のあり方を考えられないのもまた考えものであるのだけれども。

 

ま、私は便利な方がいいなあなんて思ってしまう。

 

小休止の日々

今少し落ち着いているが、12月までの全速力に、来春にはめまぐるしい環境変化が予定されていて、なかなかsnsやらブログやらを楽しむ時間がなくなっている。

 

目は通しているし、色々考えているのだが、言葉としてまとめて発信するまでができない。実にもどかしい。

 

先日、あるブログを読んでいて驚いた。

 

数学者や物理学者、またはそれに類する分野というのは、神の存在がない世界のことを日夜研究していると言っても過言ではない。

なぜなら…とあったからだ。

 

理系ほど敬虔な有神論者はいないと私は身をもって知っていて、それを頑なに信じている。

 

中途半端な科学信者や数字信者に限ってのみ、まあ無神論者であってもおかしくないのかもしれないが…。

 

数字の美しさに魅せられれば、いかにその世界が完璧で静謐で神聖であるかわかるので、神の存在を否定するのが難しくなるはずである。

突き詰めれば突き詰めるほどに。

 

神が存在しない世界の話ではなく、神がつくりたもうたこの世界の謎を人類としていかに読み解いていくのか、いかに神の視点に近づいていけるのかを、数字や数式を持って近づいていくのが数学であり、科学の世界だと私は考えている。

 

数学を作り出した人間が、科学を進化させた人間が素晴らしいなどと身の程知らずな事を語る学者がいるだろうか。

 

はからずも世界の謎について、神の目線に近づく事を許されたに過ぎないのである。

 

数字には美も神も完璧に宿っている。

 

まあ、それぞれの考え方があって良いと思うし、それもまた一つのこの世界の美しさであろう。

 

ブログ主がどういった経験に基づいてそれを記したのかはわからないのだが、あまり専門外の分野について断言するような物言いはやめたほうがいいのではないだろうかと苦笑してしまった。

 

マーケティングですら、理論に基づいているし、また色彩の世界もそうである。

 

ジャッドの色彩調和論は、「秩序の原理」「類似性の原理」「明瞭性の原理」「なじみの原理」の4つから成り立っている。

 

原理や理論の美しさに触れるたびに私は神、或いは神に準じる大いなるシステムの存在を確信してしまう。

 

そういったある種の敬虔さや、謙虚さを持たないものはいづれの道においても素晴らしい研究から外れているようにも思える。

 

神の目は荒いようにして細かい。

 

エゴイスティックに自分が素晴らしいとか、人間様こそ至高であるとしているようでは真理にたどり着く事は出来ないだろう。

 

また、直感的に真理に触れてしまう人々も世の中にはいるのだが、それらの人々がいかに他の人にそれを伝えるのかにおいて、理論や原理は非常に役に立つ。

 

そして、その場合エゴイスティックであればあるほど自滅していく。

 

まあ、淡々と日々を過ごしていくこと、謙虚で敬虔である事が大切だよねと言うだけの事である。

 

ああ、また忙しない日々が始まる。

教祖様はリスカブスなのか「ほいと」なのか。

某国が手首を切るブスだと言ったのは岩井志麻子氏である。

 

http://blog.esuteru.com/archives/9333174.html

 

リスカブスと言う単語を使いわかりやすい記事を書いてくださったのが、竹久友理子氏。

https://takehisayuriko.tokyo/2019/07/12/post-5517/

 

さて。

 

教祖様はリスカブスか否か?

 

まあ、リスカブス的メンタルであることは間違いないだろう。

或いは、構ってちゃん的メンヘラかもしれない。

 

私はほいとー…つまり、乞食だと思っているが。

 

ここまできたら正直もう別にどうでも良いし、多分もうどうしようもない。

波動乖離だとか、世界線移動だとか、波動上昇と言うスピリチュアル的な意味を含まずとも。

 

今この界隈にまだ出入りしている人々についてはもう救いようがないと諦めるより他ないだろう。

 

岩井志麻子氏の初期の小説、タイトルは失念してしまったのだが、恐らくべっぴんじごくか、魔羅節だと思う。

その中に「ほいとがくれ」「ほいとばしら」と言う言葉が出てくる。

 

ほいととは、ある辞典によると、

陪堂
読み方:ほいと,ほいとう

乞食をいふ。中国四国、奥羽、北陸の方言。「ほいと」ともいふ。ほいたうは陪堂の宋音。もと禅示にて僧堂の外堂に陪して食を受くる客僧即ち食客僧を称へしよりいふ。

また、国語辞典によると

ほい‐と【陪堂・乞児・乞食】
〘名〙 (「ほいとう(陪堂)」の変化した語)
① 他人に飯米などを施すこと。また、その飯米。転じて、ものもらい。こじき。〔かた言(1650)〕
② いそうろう。食客

 

とあり。まあ、ようは乞食のことである。

 

そして、ほいとがくれ、ほいとばしらはその乞食が各家庭の中で入り込める位置を示している 。つまり、乞食が物乞いをする事の出来る場所と、家庭を線引きするものである。

 

日本人はハレとケ、神域を示す注連縄など、あちらとこちらの境目をはっきりと線引きする。

 

このほいとがくれやほいとばしらもそう言ったkeep outを示す役割を果たしており、

 

私達もそろそろ、ほいとばしらを心に建てるべき時期なのではないだろうかと私は考えている。

 

リスカブスと呼ばた某国は各国から総スカンをくらっている。

其の国の友人は最近ずっとバタバタバタバタと動いているが、まあ、もう何をしても悪足掻きにしかならないだろう。

 

ほいとばしらから内側に来る事はもう許されないのたから。ほいとと我々は棲み分けをするべきだと皆が気付いてしまったのだから。

 

さて、このほいとと言う言葉は非常に興味深く、様々な漢字、語源の予測がある。

 

そのうちの一つが祝い人であり、

言海によるとその語源は

祝人ほぎひと陪堂ほいとうのいずれにかあるのだと言う。


神事において祝詞を述べる人を「祝人」という。これより、お祝いを述べる人→相手にごまをすり、調子の良いことを言って物乞いをする人→そう言った人を揶揄するつもり、があったのかもしれない。

神職との比較に底意地の悪さが見え隠れするでもない。実に陰湿であり、思わず笑ってしまう。

 

この語源の推理がもし正鵠を射ているのであれば、教祖様はまさに祝人のほいとである。

他人が気持ちの良くなるような無責任な発言を繰り返して、お金をせびる、ほいと。

 

私達はほいとが越えてはならない一線、私達とあちら側に越えてはならない一線が存在すると言う事をしっかりと意識しなくてはならないだろう。

 

いいえ、そこから先を越えてはダメよとぴしゃりと言う事だけが大切なのではない。

 

ただ毅然と事実のみを話し、何をしてもよく、何をしてはならないのかを伝えるだけでもいいだろうし、

或いは向こうが越えてきたら静かに距離を取り逃げるのもいいだろう。

 

結局のところ何を選ぶのかは個人の自由なのだ。

 

こじきの王様お姫様とごっこ遊びをしたり、お歌を歌ったり、聞いたりするのも、自由なのだ。

 

そうして、私達は二度と交わらない場所までいけるだろう。

 

どうぞ、お幸せにね。

 

ぼろ切れを、残飯を、のみを虱を、どうぞ、欲しい欲しいと泣き喚きながら取り合いいればいいよね。

それが皆の幸せなんだものね。

 

本当に、外の皆がそんなものに嫉妬するとでも思うのかな?それならそれで私は全く構わないのだけれども。

 

きっともう交わらない人々に向けて、どうぞお幸せにと、私も言祝ごう。

お礼は何にも要らないけれど。

ロスジェネだろうがリーマンだろうが

まあ、ロスジェネ世代だろうと、リーマンショック世代だろうとやる事は一つ。

 

淡々と今日の自分を生きていく事。

出来れば昨日より少しだけ成長する事。

たまには足踏みしたり後退するかも知れないけれども、それでもまた一歩踏み出していく事。

 

 

極論それしかないのだけれどと言ってしまえば終わってしまうし、そもそもキラスピやキラキラ起業にハマる人々はたぶんこの部分に関してはちゃんとわかっているのだとも思う。

 

ただ、視点が未来の理想の自分にしかなく、現時点の情けない未熟な自分、何者にもなれなかったつまらない自分に向いていないだけで。

 

今の自分を否定する事を現実逃避というのを、知らないだけで。

 

あるアメブロスピリチュアル女社長の取り巻きに、非常に高学歴かつ、やんごとない家柄の女性がいた。

 

彼女の家にはとある重要文化財が沢山あり、ある時期になると世界中から観光客が訪れる。

またお父様はその地域のお医者様の元締め的立場にあり、彼女自身、花道に踊りに精通していて、師範の資格を持ち、かつ大学を2つほどでている。

そのうちの一つは専門職で、アメリカ在住の友人から起業に誘われていたのだが、結局彼女は教祖様方と共にいる事を選んだ。

 

そんな恵まれた環境と肩書きがあり、彼女自身が努力家でクレバーであるにも関わらず、どうしてと思わずにはいられない。

 

去年教祖様ブログを見た時にまだ彼女が取り巻きとして写っているのを見て、ああ、と残念に思った。

 

これは、人生において、社会的にある意味良い学校をでて、ある意味良い会社に入って、一生懸命頑張っている人々の一部にも時たま感じるのであるが、

 

一生懸命、正解を探して導きだそうともがいて必死になっている感じ。

 

自分の頑張りを大事に大事に抱えて(そう、それ自体は褒められるべき事。)必死になって社会の荒波の中で溺れないように、なんとか浮かんで泳ぎ切ろうと力んでいる感じ。

 

その痛々しさ。

 

何となく本人も気づいているのだ。

 

あれ?私、何の為に頑張ってきたのかな?

あれ?私、こんな事の為に頑張ってきたの?

 

と言う虚無感に。

 

(良い学校も良い会社もよく知られている、とかある意味において、でしかないのでありそこにいるから幸せになれるとは限らない。そこにいるから幸せなのだと言う人は単純に自己同一化の依存状態である。)

 

頑張って、本人の能力の高さもあり、ある程度の社会的成功を収めているはずなのに、茫漠とした不安に、暗澹たる気持ちを抱えている。

 

そう言う人は人間関係や恋愛がだいたい苦手であるな、とも思う。

 

肩書きは所詮肩書きでしかない。

 

肩書きが同じであっても幸せな人間とそうでない人間がいるように。

 

名刺ジャンケン下らない、会社自慢はアホくさい、学歴マウント馬鹿馬鹿しいと言いつつも、自己紹介に書いてしまうその可愛らしい哀らしさ。

 

まあ、そんな人間ごろごろいるのだけれども。

 

いつかくる幸せは、この現代におけるいつかくる白馬の王子様に等しい。

 

他人から得られる承認や肩書きは白馬の王子様にはならない。

 

幸せは自分で勝手にならなければならないものであり、誰かが与えてくれるものではない。

 

もちろん、未来の自分ですら。

 

願わくば良き道を。

尤度

お久しぶりです。

お休み中にもかかわらずアクセスして頂きました方々に感謝を込めて。

 

さて。

尤度とはもっともらしさの度合いの事である。

ゆうどと読むのであるが日常的にあまりこの言葉を使うことはないと思う。

例えばAIが何を持って最適解を導き出すのかと言えばこの尤度による所が大きい。

 

私はこの尤度を意識的に使い匿名でSNSを使っていると思っている。つまり、仕事やプライベートになるべく繋がらないようにしながら、自分の内面をいかに記していくかと言う所に比重を置いていると言う事。

嘘は決してつかないのは当然の事ながら、さりとて真実にも近づけないようにほんの少しだけ誘導をしている。

 

AIと違い、人間の尤度の判断基準と言えば自らの経験や価値観のバイアスがかかる。

だから私がこのように受け取って欲しいと思っていてもそれがそのまま解釈されるとは限らない。

 

尤度にかけて、尤度を意識的に使っていくしかない。

 

顔を出してプライベートをある程度解放してSNSに参加する事を私はあまり望まない。

 

そうしている人々を揶揄するつもりは一切ない。単純に価値観の違いである。

 

私は1人で静かに過ごす時間にも価値を感じているし、また誰かと話すことも好きであるし、プライベートのバイアスがかかっていない人々と語りたいと言う欲求も持っている。

 

だからこそSNSとの付き合い方はこれが私にとって現在最適解であると考えている。

 

安全な場所で誰かを揶揄するブログを書いていることは卑怯だろうか?

 

私はそうは思わない。

 

違いに素性を明かし合えばフェアであるなんて事は無い。社会的立場の違いや年齢の上下において素直に話せないバイアスがかかる事もあるだろう。

 

また、自らの素性を曝け出し集客を行なっているのであれば、当然の事ながら肯定も批判もされるだろう。と、いうかされるべきなのだ。

 

ここは社会主義国家でも無ければ(本来の意味の社会主義では無く、現存する社会主義的な意味において)言論弾圧など存在し得ないはずの社会なのだから。

 

アウフヘーベンを経て、よりよく進化する為には様々な意見があるのは当然ではないか。

 

(まあ、本来ならば、べき、当然だなんてがんじがらめの言葉を使う必要は無く、思考を狭めてしまうので取り扱い注意な言葉であるが。)

 

何を選択するのも自由。

誰かを傷つける事すら、自由にできる。

 

でも、それは道理から外れている。だから、ツケを払わなくてはならないだろうし、場合によっては…。

いずれにせよ全ては自分に返ってくる。

 

自分を責めすぎると、他責に走りたくなる。

他責に走る事は罪を重ねていく事に繋がる。

自分を肯定しすぎると、自我に飲み込まれ強欲の魔物になる。

 

中道これがなかなか難しい。

 

中道の尤度は何処にありや。

 

まあ、自分なりのSNSとの付き合い方をしっかり考えていく時代なのだろうと思う。

 

キラキラするのも、黙々するのも、また自由。