ロスジェネだろうがリーマンだろうが

まあ、ロスジェネ世代だろうと、リーマンショック世代だろうとやる事は一つ。

 

淡々と今日の自分を生きていく事。

出来れば昨日より少しだけ成長する事。

たまには足踏みしたり後退するかも知れないけれども、それでもまた一歩踏み出していく事。

 

 

極論それしかないのだけれどと言ってしまえば終わってしまうし、そもそもキラスピやキラキラ起業にハマる人々はたぶんこの部分に関してはちゃんとわかっているのだとも思う。

 

ただ、視点が未来の理想の自分にしかなく、現時点の情けない未熟な自分、何者にもなれなかったつまらない自分に向いていないだけで。

 

今の自分を否定する事を現実逃避というのを、知らないだけで。

 

あるアメブロスピリチュアル女社長の取り巻きに、非常に高学歴かつ、やんごとない家柄の女性がいた。

 

彼女の家にはとある重要文化財が沢山あり、ある時期になると世界中から観光客が訪れる。

またお父様はその地域のお医者様の元締め的立場にあり、彼女自身、花道に踊りに精通していて、師範の資格を持ち、かつ大学を2つほどでている。

そのうちの一つは専門職で、アメリカ在住の友人から起業に誘われていたのだが、結局彼女は教祖様方と共にいる事を選んだ。

 

そんな恵まれた環境と肩書きがあり、彼女自身が努力家でクレバーであるにも関わらず、どうしてと思わずにはいられない。

 

去年教祖様ブログを見た時にまだ彼女が取り巻きとして写っているのを見て、ああ、と残念に思った。

 

これは、人生において、社会的にある意味良い学校をでて、ある意味良い会社に入って、一生懸命頑張っている人々の一部にも時たま感じるのであるが、

 

一生懸命、正解を探して導きだそうともがいて必死になっている感じ。

 

自分の頑張りを大事に大事に抱えて(そう、それ自体は褒められるべき事。)必死になって社会の荒波の中で溺れないように、なんとか浮かんで泳ぎ切ろうと力んでいる感じ。

 

その痛々しさ。

 

何となく本人も気づいているのだ。

 

あれ?私、何の為に頑張ってきたのかな?

あれ?私、こんな事の為に頑張ってきたの?

 

と言う虚無感に。

 

(良い学校も良い会社もよく知られている、とかある意味において、でしかないのでありそこにいるから幸せになれるとは限らない。そこにいるから幸せなのだと言う人は単純に自己同一化の依存状態である。)

 

頑張って、本人の能力の高さもあり、ある程度の社会的成功を収めているはずなのに、茫漠とした不安に、暗澹たる気持ちを抱えている。

 

そう言う人は人間関係や恋愛がだいたい苦手であるな、とも思う。

 

肩書きは所詮肩書きでしかない。

 

肩書きが同じであっても幸せな人間とそうでない人間がいるように。

 

名刺ジャンケン下らない、会社自慢はアホくさい、学歴マウント馬鹿馬鹿しいと言いつつも、自己紹介に書いてしまうその可愛らしい哀らしさ。

 

まあ、そんな人間ごろごろいるのだけれども。

 

いつかくる幸せは、この現代におけるいつかくる白馬の王子様に等しい。

 

他人から得られる承認や肩書きは白馬の王子様にはならない。

 

幸せは自分で勝手にならなければならないものであり、誰かが与えてくれるものではない。

 

もちろん、未来の自分ですら。

 

願わくば良き道を。