教祖様はリスカブスなのか「ほいと」なのか。
某国が手首を切るブスだと言ったのは岩井志麻子氏である。
http://blog.esuteru.com/archives/9333174.html
リスカブスと言う単語を使いわかりやすい記事を書いてくださったのが、竹久友理子氏。
https://takehisayuriko.tokyo/2019/07/12/post-5517/
さて。
教祖様はリスカブスか否か?
まあ、リスカブス的メンタルであることは間違いないだろう。
或いは、構ってちゃん的メンヘラかもしれない。
私はほいとー…つまり、乞食だと思っているが。
ここまできたら正直もう別にどうでも良いし、多分もうどうしようもない。
波動乖離だとか、世界線移動だとか、波動上昇と言うスピリチュアル的な意味を含まずとも。
今この界隈にまだ出入りしている人々についてはもう救いようがないと諦めるより他ないだろう。
岩井志麻子氏の初期の小説、タイトルは失念してしまったのだが、恐らくべっぴんじごくか、魔羅節だと思う。
その中に「ほいとがくれ」「ほいとばしら」と言う言葉が出てくる。
ほいととは、ある辞典によると、
陪堂
読み方:ほいと,ほいとう
乞食をいふ。中国四国、奥羽、北陸の方言。「ほいと」ともいふ。ほいたうは陪堂の宋音。もと禅示にて僧堂の外堂に陪して食を受くる客僧即ち食客僧を称へしよりいふ。
また、国語辞典によると
ほい‐と【陪堂・乞児・乞食】
〘名〙 (「ほいとう(陪堂)」の変化した語)
① 他人に飯米などを施すこと。また、その飯米。転じて、ものもらい。こじき。〔かた言(1650)〕
② いそうろう。食客。
とあり。まあ、ようは乞食のことである。
そして、ほいとがくれ、ほいとばしらはその乞食が各家庭の中で入り込める位置を示している 。つまり、乞食が物乞いをする事の出来る場所と、家庭を線引きするものである。
日本人はハレとケ、神域を示す注連縄など、あちらとこちらの境目をはっきりと線引きする。
このほいとがくれやほいとばしらもそう言ったkeep outを示す役割を果たしており、
私達もそろそろ、ほいとばしらを心に建てるべき時期なのではないだろうかと私は考えている。
リスカブスと呼ばた某国は各国から総スカンをくらっている。
其の国の友人は最近ずっとバタバタバタバタと動いているが、まあ、もう何をしても悪足掻きにしかならないだろう。
ほいとばしらから内側に来る事はもう許されないのたから。ほいとと我々は棲み分けをするべきだと皆が気付いてしまったのだから。
さて、このほいとと言う言葉は非常に興味深く、様々な漢字、語源の予測がある。
そのうちの一つが祝い人であり、
大言海によるとその語源は
祝人ほぎひと陪堂ほいとうのいずれにかあるのだと言う。
神事において祝詞を述べる人を「祝人」という。これより、お祝いを述べる人→相手にごまをすり、調子の良いことを言って物乞いをする人→そう言った人を揶揄するつもり、があったのかもしれない。
神職との比較に底意地の悪さが見え隠れするでもない。実に陰湿であり、思わず笑ってしまう。
この語源の推理がもし正鵠を射ているのであれば、教祖様はまさに祝人のほいとである。
他人が気持ちの良くなるような無責任な発言を繰り返して、お金をせびる、ほいと。
私達はほいとが越えてはならない一線、私達とあちら側に越えてはならない一線が存在すると言う事をしっかりと意識しなくてはならないだろう。
いいえ、そこから先を越えてはダメよとぴしゃりと言う事だけが大切なのではない。
ただ毅然と事実のみを話し、何をしてもよく、何をしてはならないのかを伝えるだけでもいいだろうし、
或いは向こうが越えてきたら静かに距離を取り逃げるのもいいだろう。
結局のところ何を選ぶのかは個人の自由なのだ。
こじきの王様お姫様とごっこ遊びをしたり、お歌を歌ったり、聞いたりするのも、自由なのだ。
そうして、私達は二度と交わらない場所までいけるだろう。
どうぞ、お幸せにね。
ぼろ切れを、残飯を、のみを虱を、どうぞ、欲しい欲しいと泣き喚きながら取り合いいればいいよね。
それが皆の幸せなんだものね。
本当に、外の皆がそんなものに嫉妬するとでも思うのかな?それならそれで私は全く構わないのだけれども。
きっともう交わらない人々に向けて、どうぞお幸せにと、私も言祝ごう。
お礼は何にも要らないけれど。