小休止の日々
今少し落ち着いているが、12月までの全速力に、来春にはめまぐるしい環境変化が予定されていて、なかなかsnsやらブログやらを楽しむ時間がなくなっている。
目は通しているし、色々考えているのだが、言葉としてまとめて発信するまでができない。実にもどかしい。
先日、あるブログを読んでいて驚いた。
数学者や物理学者、またはそれに類する分野というのは、神の存在がない世界のことを日夜研究していると言っても過言ではない。
なぜなら…とあったからだ。
理系ほど敬虔な有神論者はいないと私は身をもって知っていて、それを頑なに信じている。
中途半端な科学信者や数字信者に限ってのみ、まあ無神論者であってもおかしくないのかもしれないが…。
数字の美しさに魅せられれば、いかにその世界が完璧で静謐で神聖であるかわかるので、神の存在を否定するのが難しくなるはずである。
突き詰めれば突き詰めるほどに。
神が存在しない世界の話ではなく、神がつくりたもうたこの世界の謎を人類としていかに読み解いていくのか、いかに神の視点に近づいていけるのかを、数字や数式を持って近づいていくのが数学であり、科学の世界だと私は考えている。
数学を作り出した人間が、科学を進化させた人間が素晴らしいなどと身の程知らずな事を語る学者がいるだろうか。
はからずも世界の謎について、神の目線に近づく事を許されたに過ぎないのである。
数字には美も神も完璧に宿っている。
まあ、それぞれの考え方があって良いと思うし、それもまた一つのこの世界の美しさであろう。
ブログ主がどういった経験に基づいてそれを記したのかはわからないのだが、あまり専門外の分野について断言するような物言いはやめたほうがいいのではないだろうかと苦笑してしまった。
マーケティングですら、理論に基づいているし、また色彩の世界もそうである。
ジャッドの色彩調和論は、「秩序の原理」「類似性の原理」「明瞭性の原理」「なじみの原理」の4つから成り立っている。
原理や理論の美しさに触れるたびに私は神、或いは神に準じる大いなるシステムの存在を確信してしまう。
そういったある種の敬虔さや、謙虚さを持たないものはいづれの道においても素晴らしい研究から外れているようにも思える。
神の目は荒いようにして細かい。
エゴイスティックに自分が素晴らしいとか、人間様こそ至高であるとしているようでは真理にたどり着く事は出来ないだろう。
また、直感的に真理に触れてしまう人々も世の中にはいるのだが、それらの人々がいかに他の人にそれを伝えるのかにおいて、理論や原理は非常に役に立つ。
そして、その場合エゴイスティックであればあるほど自滅していく。
まあ、淡々と日々を過ごしていくこと、謙虚で敬虔である事が大切だよねと言うだけの事である。
ああ、また忙しない日々が始まる。