尤度

お久しぶりです。

お休み中にもかかわらずアクセスして頂きました方々に感謝を込めて。

 

さて。

尤度とはもっともらしさの度合いの事である。

ゆうどと読むのであるが日常的にあまりこの言葉を使うことはないと思う。

例えばAIが何を持って最適解を導き出すのかと言えばこの尤度による所が大きい。

 

私はこの尤度を意識的に使い匿名でSNSを使っていると思っている。つまり、仕事やプライベートになるべく繋がらないようにしながら、自分の内面をいかに記していくかと言う所に比重を置いていると言う事。

嘘は決してつかないのは当然の事ながら、さりとて真実にも近づけないようにほんの少しだけ誘導をしている。

 

AIと違い、人間の尤度の判断基準と言えば自らの経験や価値観のバイアスがかかる。

だから私がこのように受け取って欲しいと思っていてもそれがそのまま解釈されるとは限らない。

 

尤度にかけて、尤度を意識的に使っていくしかない。

 

顔を出してプライベートをある程度解放してSNSに参加する事を私はあまり望まない。

 

そうしている人々を揶揄するつもりは一切ない。単純に価値観の違いである。

 

私は1人で静かに過ごす時間にも価値を感じているし、また誰かと話すことも好きであるし、プライベートのバイアスがかかっていない人々と語りたいと言う欲求も持っている。

 

だからこそSNSとの付き合い方はこれが私にとって現在最適解であると考えている。

 

安全な場所で誰かを揶揄するブログを書いていることは卑怯だろうか?

 

私はそうは思わない。

 

違いに素性を明かし合えばフェアであるなんて事は無い。社会的立場の違いや年齢の上下において素直に話せないバイアスがかかる事もあるだろう。

 

また、自らの素性を曝け出し集客を行なっているのであれば、当然の事ながら肯定も批判もされるだろう。と、いうかされるべきなのだ。

 

ここは社会主義国家でも無ければ(本来の意味の社会主義では無く、現存する社会主義的な意味において)言論弾圧など存在し得ないはずの社会なのだから。

 

アウフヘーベンを経て、よりよく進化する為には様々な意見があるのは当然ではないか。

 

(まあ、本来ならば、べき、当然だなんてがんじがらめの言葉を使う必要は無く、思考を狭めてしまうので取り扱い注意な言葉であるが。)

 

何を選択するのも自由。

誰かを傷つける事すら、自由にできる。

 

でも、それは道理から外れている。だから、ツケを払わなくてはならないだろうし、場合によっては…。

いずれにせよ全ては自分に返ってくる。

 

自分を責めすぎると、他責に走りたくなる。

他責に走る事は罪を重ねていく事に繋がる。

自分を肯定しすぎると、自我に飲み込まれ強欲の魔物になる。

 

中道これがなかなか難しい。

 

中道の尤度は何処にありや。

 

まあ、自分なりのSNSとの付き合い方をしっかり考えていく時代なのだろうと思う。

 

キラキラするのも、黙々するのも、また自由。