優しい人々について思う事

世の中には非常に共感能力が高く、優しい人々がいる。

 

彼らは傷ついた人々に寄り添い、時に涙し、時に共に喜ぶ。

非常に人間的であり、賞賛されるべき素晴らしい人々である。

 

私は彼らのような人物に出会うたび深い尊敬の念と敬愛を抱く。

 

だが、信者様界隈にまでその優しさを発揮する時、いや、それは本来発揮するべき優しさではないのかもしれないよ、と伝えたくなる時がある。

 

と、言うのも信者様界隈は何はともあれ依存心が強く、1人で生きていかれないと信じている人が多いからだ。

 

また、必要以上に自分の能力を低く見積もったり、世界で一番不幸であると思い込んでいたり、過剰なコンプレックスや、自尊心が異常なまでに低くかったり、被害者意識が強い人が多い。

 

彼らにとって、同情や共感は依存心を想起させるものであり、

 

ある種の被害者でいれば愛に近いもの、親愛や同情や共感をもらう事ができる、もらい続ける事が出来るという成功体験になるだろう。

 

それは、被害者認知から脱し、精神的自立をする機会を奪うことになりかねない。

 

もちろん、可哀想な人間は可哀想だ。

傷ついた人間をみて自己責任だなんだと言う人間は人としてどうかと思う。

 

見知らぬ他人から傷口に塩を塗られるなどと言うのは、セカンドレイプのような獣にも劣る行為だと思う。

 

だから、敢えて傷ついている人間を選び、そのような人にたいして、馬鹿だ阿呆だ自己責任だと言う必要はないだろうと思うし、それをする人間は人としてどうかと思う。

 

傷ついている人に、大変でしたね、や、お疲れ様でした、や、お辛かったでしょう、心中お察し致します、私もそうだったんですよ、等の言葉を伝えてもいいだろう。

 

まあ、赤の他人に伝えるのならば、距離感を間違えないようにすべきだと思うが。

 

ただ、心中察した後が大切なのだ。

 

傷ついた彼らにいかに現実を受け入れてもらうか。

傷ついた彼らがいかに教祖やスピリチュアルを捨てて自立していくか。

 

厳しいようだが、正直、共感や同情や優しさでは彼らは救われないし、救えない。

 

共感や同情や優しさを傷ついた人々は心底喜んで受け取る事だろう。

 

場合によっては優しい人々に心底感謝するだろうし、かけがえのない人だと敬愛するかもしれない。

 

だが、ただ優しさを与えるだけでは相手を自分に依存させるだけで終わってしまうだろう。あるいは傷が癒えた彼らはまた新たな教祖探しや共依存先探しに奔走するかもしれない。

 

それでは駄目なのだ。

 

自立し、自力で生きていかねばならないのだ。

 

優しさは人を救うだろう、だが、それには具体的な行動が必要だ。

 

愛は地球を救うのは24時間テレビなのだが、愛で地球は救えない。

愛に具体的で自主的な行動が伴って初めて愛は地球を救うだろう。

 

祈りが全く無意味だなんて私はツユとも思っていないが、祈りで世界は救えない。

 

愛するだけで腹は膨れないし、祈るだけで暖をとるための毛布は出てきやしないのだ。

 

赤の他人を救う為に必要なのは愛だけではなく、具体的な行動だ。

 

だが、いちいち他人の行動を監視しているわけにはいかないのだから、自力で自立してもらうしかない。

 

だから、優しさだけを示すのではなく、具体的なアドバイスや、傷ついた人々に自立を促すことが大切だろうと私は思う。

 

人から優しさを取り上げてやろうなんて思っていないし、どうかその優しさはなくさないでほしいと思う。

 

だが、どうか優しさの示し方を、優しさを発揮する場所を、相手を間違えないでほしい、とも思う。

 

自分の言葉や思いが真に相手の役に立つのかどうか考えると何が正しいのかわからなくなる事もあるだろう、優しい人々は得てして他人事で悩むものだ。

 

悩む必要は無いと思うので、一つのやり方を提案しておこうと思う。

 

「〜して、辛かったね。大変だったね。じゃあそれを活かしてどうしていきましょうか。

どうしたらそれを元に成長できるでしょうか。

 

私も共に考えます。あなたもぜひ考えてみてください。

 

差し出がましいようですが、このような考え方や、このようなやり方がありますよ。私はこう思います、あなたはどうですか?」

 

と言えるまで、どうかその優しさを持って相手の事を考えてみてほしいし、出来れば伝えて欲しいと思う。 

 

もちろん、相手に依存させないように注意すべきであるが。

 

感情だけの共感は相手の役に立たないだろう。

 

自分の事は自分で見ることが出来ない。

 

せっかくの他人同士なのだから、相手の役に立つ物事の見方や身の振り方を、他人視点からぜひとも伝えてあげてほしい。

 

優しさがそう活かされていけばいいな、と私は思う。

 

まあ、信者様界隈にコレをやるのは非常に危険だしなかなか難しいと思うので、かなりチャレンジングだと思う。

やってみる価値はあるかもしれないが、人は選ぶべきだろう。

 

そう、全ての人々は神でも救えない世の中なのだ。誰かが誰かを救うなどとはおこがましい。私達に許されているのは、誰かが自力で立ち上がる手助けするだけ。

共倒れにならないように、手を貸す相手は慎重に選ぶべきだろうな、と思う。

 

何しろある種の淘汰がもう始まっているようであるから。

 

また、傷ついた気の毒な方々へ。

私は、傷がある程度まで癒えたなら、あなた方は、自らの力で立ち上がる必要があると思います。

被害者のままで終わらない為にも辛い現実を受け入れ教祖様やスピリチュアルと決別して歩み始める必要があるでしょう。現実的に動きだして下さい。

 

また、スピリチュアルとは一切縁を切るべきです。必要であれば、どうせまた呼び戻されます。全ての書籍やグッズを捨ててください。

 

中途半端な同情や共感や優しさは心地よいでしょうが、依存心を生み出すだけで、あなた方の現実を何一つ変えてはくれないのです。

 

厳しいようですが、私はそう思います。

あなた方は、きっと立ち上がる事が出来る。何故なら耳が痛い言葉を聞く力があるのだから。

さあ、今から動きだしてください。

何をやっていいのかわからなければ、仕事にいき、掃除をして、周囲の人に挨拶をして下さい。

仕事がなければ、掃除をして、履歴書を書き始めましょう。書き方がわからないのならば、ハローワークの方に聞いて下さい。ハローワークの場所を探すだけでもいいです。

 

きっとあなた方ならできますよ。