死に近い場所に居た事について思う事

最近心屋心理教教祖様のブログでギョッとした言葉があった。

 

死んでしまえꉂꉂ(ᵔᗜᵔ*)

 

自死を選んだ母親についての相談であったが…。

まあ、炎上狙いだったのならば誰にも相手にされていないようだから失敗だろうし、

 

正直、死を軽々しく扱う姿勢が全く変わっていない事にああ、この人はもう駄目なんだろうな、と嘆息する。彼は近々、社会からの乖離が酷くなり、場合によっては隔絶さるだろうと思う。

 

死はどんなものであれ悼まれるべきだと私は考えている。

 

 

身バレは極力避けたいと思っているのだが、私がそのように考えるのにはきちんと理由があるのだと伝えたいので、また自分の考えや経験をまとめたいと思うので、記す。

 

私は医師に2〜3割の確率で死ぬだろうと言われた事がある。

その時思った事は、ああ、残念だなあ、

2〜3割の確率で死ぬのならば私は死なないんだろうな、と言う事だった。

 

当時の私ときたら何一つ思い通りにならなかったし、何一つうまく行かなかったもので、

厭世的な考えが極まりすぎて、何故か死ぬ事すら出来ないんだろうなと言う思考回路が三回転ひねりのウルトラcを決め込んでいた。その為、医師の宣告に対して一切の恐怖も興味も抱かなかった。

 

謎の思い込みのせいかは知らないが、まあ、おかげさまで私は無事に今日まで生きている、本当に、有難い事である。

 

そういった時分、私は入退院を繰り返していて、様々な病院、様々な病棟に出入りを繰り返し、今より死が随分と身近にあった。

 

大人まで生きていられない子供達とともに過ごすこともあったし、

 

高学歴であったり、その逆であったりであるが故に自らの存在に苦しみ、破壊的、暴力的になる人々と過ごす事もあった。

 

様々な、肉体的、精神的な病気で苦しむ人々と過ごしてわかった事は、

 

結局のところ、生きているうちは生きるしかないのだということである。

 

よく、テレビドラマを見ていると、小児病棟の子供達は病と健気に戦うピュアで汚れなき天使のように描かれているが、大人まで生きていられないような子供達がピュアネスフルとは限らないのだと私は知っている。

 

彼らは抜け目ないし、残りわずかな時間を使って精一杯大人になろうとする。

 

ある意味大人の世界より内情はドロドロしているし、子供で大人な彼らの作る物悲しい歪な世界は俗悪なファンタジーのようだった。

多分、恐らくは自分達が経験できないだろう大人の世界を作り出そうとしていたのだと思う。

 

彼らは決して大人にその世界を見せる事はしない。ちらとでも大人にその世界を匂わせるような事をしてみれば、裏切り者としてネバーランドから追放される。

 

また、病棟の子供達は随分と大人なので、大人達の前ではドラマの如きピュアネスフルな自分たちを演じる。

その方がずっと得をすると、知っているから。

 

私は彼らの多くが経験していないだろう大人の世界に今生きている。歪ではあるが、彼らの作り出した大人の世界のレプリカは随分出来が良かったよ、と伝えてやりたい。

 

頭が良いと、あるいは悪いと自認しているばかりに自分の認知の歪みに、フィルターのおかしさに気がつくことが出来なかったり、気がつくことが出来てももう身動きが取れず社会のどこにも居場所がなくなった人々も、ただ生きるしかないのだと思った。

 

私は結局病が完治し、運良く社会に戻ってきたのだが、ほどなくして体が悲鳴をあげだ。

 

死にものすごく近い場所にいるときは気がつかなかったのだが、少し離れた場所から死を眼前に感じた時に私が思ったのは、皮肉にも、死にたくない、だった。

 

まあ、色々な角度から死を見る機会を与えていただいたので、

 

やはりどんなものであれ、死は悼まれるべきものだと思うし、

 

自死を選んだ方もひょっとしたら、私と同じように眼前に迫った死を前にとんでもない恐怖と後悔を感じたかもしれない。

運良く、あるいは悪く死んでしまっただけで、本当は生きていられないと思っただけだったのに、と思ったかもしれない。

主観的な死は個人的なものだから、真実は藪のなかだけれども。

 

残された人々を苦しめようとして死を選ぶ人もいるかもしれないが、究極的には自死は自分自身から逃げた先なのだと思う。

 

心屋心理教教祖様の残された方への罪悪感を減らしてあげたい気持ちは素晴らしいと思うのだが、同じくらい自死を選んだ方へも想いを馳せて、言葉を選んで欲しかったよなと思う。

 

例え自死を選んだとしても、彼らには人としての尊厳があったのだ。

どうしようもない苦しみに突き動かされて、行動した先に死が待っていただけなのだ。

 

それを知っていれば、

死んでしまえ、とは言えないのではないだろうか。

 

残された人々は生きていくしかない。

地獄のような日々や後悔に胸が押しつぶされそうになるかもしれない。

 

でも、生きていれば木の芽が柔らかく芽吹いていく様も、

朝靄の世界が鮮明さを帯びていく様も、

海の煌めきも、山の息吹も、

なんだって感じる事ができる。

 

後悔も苦しみも、美しさも楽しさも、切なさも、生きているものは感じていい。

 

辛いばかりではなく、ふとした世界の美しさに気がつくことが、また生きている自分の瞳や肌を通して感じる事が出来るのだ。

 

それが生者の特権だと私は思う。

 

地獄のようなこの世をどうせサバイブするしかないのだから、せめて美しいものを、胸を打つものを集めていこうではないか。生きている間ばかりは、生者の特権を使って。