キラキラハッピー教祖様と学び

キラキラハッピー教祖様が留学なされて暫く経った。

 

彼女のダンスの出来の有無やそもそもの金の出所や、今後この経験をどう活かしていくのかと言う疑問というか、あまりの無策さはさて置き。

 

何かを学ぶと言う「姿勢だけは」評価していいと思う。

 

それ以外がてんで駄目だと言うか、そもそもやばいと言うか野蛮と言うかは、まあ置いておく。

 

スキニービッチ丸出しでアジアンヘイトのバタフライエフェクトにならなければいいのだがと心配にしかならない事もまあ、本筋から離れてしまうので、置いておく。

 

以下、自戒を込めて記す。

 

非常に残念なお知らせだが、人は学ばなければ、直ぐに傲慢になる。

視野が狭くなり、自分の意見や自分の考え、経験を絶対視し始める。

 

また、他人と意見の擦り合わせや他人との対話が難しくなる。

 

謙虚さを失う。

 

端的に言うならば、自分一人の世界で生き始める。

 

どうも何かといえば社会が悪い、

世論が悪い、弱者を守れ、

被害者の人権と権利を守れと声高に叫び、どうにかこうにか自分の意見を通してやろうと躍起になり、

世界や世論と呼ばれるものと対立したがる。

 

自分の正当性を疑わなくなり、兎にも角にも裁きの対象を探し始める。

 

とにかく誰かに自分の正しさを認めて欲しくて仕方が無くなり、裁き、悦に入る。

 

その相手や対象が大きければ大きいほど彼らの欲求は満たされていく。

 

正義感に似た、エゴイスティックな承認欲求に振り回される人生の幕開けだ。

 

学びとは何も学問や、留学のみをさすのではない。当たり前だが。

 

日常の中で他者への気配りをしたり、感謝をしたり、その様子を真似てみたり。

 

むしろ日常の中にこそ学びがあるのかもしれない。

 

私は今現在、仕事においても、自ら望んだとは言えプライベートにおいても学びを強いられている状況であり、

 

まあ、非常に有り難く良い環境である事は間違いない。

 

私は元来怠惰な人間なので、ある種の強制力が働く環境の方が、まあまあよく学ぶ。

 

学びが苦手な人は私と同じように強制力の働く環境づくりもおススメである。

 

人を裁く時、人は自分の正当性を周囲に認めさせ、対象を屈服させる快感に酔いしれる。

 

それを人は傲慢と呼ぶかもしれない。

 

勿論、人が人を裁く事は実のところ非常に傲慢であるのだが、

私達が社会の中に生きている以上は人を裁く役割を果たさなければならない人もいるし、

 

道徳的観点からおかしな事はおかしいと厳しくはっきりと言えるだけの世論形成が必要である。

 

勿論、そこから取りこぼれてしまった人々への、セーフティネットの活用の啓蒙や、セーフティネットの形成は不可欠であるが。

 

裁く事、それが快感を伴う非常に個人的なものなのか、社会性を伴う必要悪なのかどうかを見極められるだけの理性や教養が求められるだろう。

 

コミニュケーションが双方向の形を取り始めたという事は、それらを見極め、発信できるだけのリテラシーが自然と求められている状況である事を示す。

 

発信する側も受け取る側も、相手の真意や目的を理解するだけの教養や対話力が求められるわけで、ここが今現在のところ非常に深刻な課題であると思う。

 

それは分からないことが問題なのではなく、そもそも理解するつもりが無い、であったり、そもそもの対話を自己主張と勘違いしている部分にあるだろう。

 

理解するつもりがあれば、人は必ず相手の真意はどこにあるのかと疑問を抱き、相手の立場に立った質問するはずなのだ。

 

今の時点でそれを多くの人々が理解できないままなのは、これからの世界でのサバイブが二極化していく事を示しているのかもしれない。

 

非常に残念ではあるのだが、やはりある種の振り分けはもう始まっているか、既に終わっているのだろうなあと思う。

 

キラキラハッピー教祖様の学びが良きものでありますように。

 

まあ、学ぶ姿勢が大事っていうのもあるんですけどね。

 

出来ない事が恥ずかしいのではなくて、学ぶ姿勢が出来てないのが恥ずかしいんですよっていう話ですわ。