令和の時代と銀河鉄道
梅の世の始まり
何があろうともよき時代になりますよう精進する次第であります。
願わくば次の世の人々の礎となれますように。良き時代、良き人々の多くの幸せの為に。
さて、銀河鉄道の夜にこんな言葉がある。
「この次にはまことのみんなの幸いのために
私のからだをおつかい下さい。」
これはサソリ座の言葉である。
このサソリは小さな虫を殺して食べ、殺しては食べていたのだが、
ある時イタチに食べられそうになり、逃げ回ったのち、井戸へ落ちて溺れてしまう。
その時彼は、今まで自分は多くの命を奪って生きてきたのに、
イタチに食べられることもなく虚しく命を捨ててしまうことを心から後悔し、そして神さまに、上記のように祈ったのだ。
ジョバンニは言う。
「僕はもうあのさそりのように
ほんとうにみんなの幸せのためならば
僕のからだなんか百ぺん焼いてもかまわない。」
(この宮沢賢治の死生観はよだかの星やビジテリアン大祭にも見ることができる。本筋からずれるので略。)
よだかの星で、よだかは語る。
「お日さん、お日さん。どうぞ私をあなたの所へ連れてって下さい。
灼けて死んでもかまいません。
私のようなみにくいからだでも灼けるときには小さなひかりを出すでしょう。
どうか私を連れてって下さい。」
誰かの役に立ちたいと言う純粋な思い。
世のため人のために滅私の止むに止まれぬ思いが今の私達に繋がっている。
止むに止まれぬ先人達の想いの上に私達の生活がある。
ひゃっぺん焼いてもかまわない、そんな想いの上に私達の毎日がある事をどうか忘れないで欲しい。
あなたの毎日の前に、たくさんの人々の毎日があったのだから。
彼らの純粋な想いの上に、純粋な自己犠牲、滅私の上に私達の毎日があるのだから。
三種の神器は素晴らしい。
様々の日本の歴史も素晴らしい。
でも、出来れば、どうか、もう少しだけ、近代について正しく学ぶ方が増えますように。
令和の世が末を迎える前に、どうか、私達が忘れさせられてしまった、よだかの星やサソリやジョバンニの尊く小さい光が蘇りますように。
それが梅の世の人々に課せられた使命のようにも私は思う。
どんな嵐が来ようとも、よだかの星が、サソリがジョバンニが私達を導くのだろうと私は思う。きっとそれがよすがになろうと私は思う。
昼間の空に星は見えない。
今は煌びやかな偽物の光に照らされて夜空にだって星は見えない。
雨雲が邪魔して星が見えない。
でも星はいつだって、ある。
確かに存在するのだ。
めくらにされようとも、つんぼにされようとも、見えなくても、聞こえなくても
忘れ去られようとしていても、忘れるように深い深い呪いをかけられていようとも。
星がある事は変わらない、きっと本当の本当は変わらないままなのだから。
「アアきっと行くよ。
ああ、あすこの野原はなんてきれいなんだろう。
みんな集まっているねえ。
あすこが本当の天上なんだ。
あっあすこにいるの僕のお母さんだよ。」
だから、どうか。
願わくば、良き方向へと、
願わずにはいられない。
「お前もね、どうしてもとらなければならない時のほかは
いたずらにお魚を取ったりしないようにして呉れ。
ね、さよなら。」
そんな優しい言葉に甘え過られる時代はきっともう終わったのだから。