スピ界隈と思考力について思う事
スピ界隈をぶらぶらみていて思うことは、私も勿論そうなので、まさに人のふり見て我がふり直せなのであるが、その浅慮さが、目に余るという事である。
二元論的に物事を捉え、考え、判断し、
何故?どうして?という思考が苦手だと思う。
ただ、自分達の良いと思ったもの、好きだと判断したものに関しては思考力を駆使してなんとか擁護しようと必死になるので、思考力がお話にならないほど低いということは無いと思うのだが。
まあ、必死になっている時点で、二元論的思考に縛られているし、感情的になっているので、理性的な判断が出来るとは思えない。
だから大抵の人に相手にされないのだろう。
私はスピリチュアルなものを感知する感覚器官が発達していないので、それそのものを丸ごと信じるのが難しいのであるが、だからといってスピリチュアルを否定はしない。
何故ならば、大抵のものには、曖昧さ、ファジーな領域があると思うからだ。
例えば、嘘の中に真実があったり、良い事を言っている中にも賛同しかねる事があったり。
ファジーじゃない部分では、きちんと立ち入り禁止と書いてあったり、しっかり二択を迫ってくると思う。
だから、自分が腑に落ちないからだとか、見えない、聞こえない、理解できないからといってそれそのものを否定する事が、できないのである。
スピ界隈をふらふらしている人々は、自分が信じるもの以外はどうも信じられないようになっているように思う。
それは視野狭窄的で非常に悲しい事だと思う。
私は有名芸能人が自らの信条で政治的な発言や行動をする事は、自らの仕事や役割を果たした上でするのであれば別にどうも思わないのだが、
その発言や行動の根拠が浅い場合は、やはり賛同しかねるなあと、眉根を寄せてしまう。
私自身、辺野古に基地を作る事による自然破壊が良い事だとは思わないのだが、一方で、どうして自然破壊をしてでも基地を作らねばならないのか、考えてみてほしいとも思う。
何故、自然破壊をしてまで、基地をそこに作る必要があるのか?
ここまでわかっていて、その上で、自然破壊反対の立場を取るのならば、私は耳を傾けようと思う。
だが、どうも彼等の発言や行動を鑑みるに単に自然破壊反対〜★と言っているようにしか思えない。
だから、浅慮だと思う。
自然破壊を喜んでやる人間は少ないと思う。
何故、今。
何故、このタイミングで基地をつくるのか?
何故、理想があるにもかかわらず、世界は未だにそこに至らないのか?
是非考えてみて欲しいと思う。
ファジーな領域は何を良しとするのか自分で考えなければならない。
だからこそ、考えてみて欲しい。
スピリチュアル界隈にしてもそうだ。
何故、教祖様がたは人を集める?
何故、教祖様がたは辞めると言って自ら引いた引き際を伸ばし続ける?
何故、教祖様がたは批判ではない指摘に対してアクションを起こさない?
何故、教祖様がたの周りにはネットワークビジネスの世界が見え隠れする?
何故、教祖様がたは社会から逸脱するような行為をし続けなければならない?
多くの教祖様がたに批判的な指摘をする人々は、教祖様がたの教えを丸々否定していない。
それは自ら考え、ファジーな領域にきちんと自分で線引きをして物事を捉えて、判断しているからだ。
教祖様がたの全てを否定している人は、本当に少ない。
何故なら、皆、自ら考えて判断しているからだ。だから、皆、言っていることや認められない領域がちょっとずつ違う。
誰かを全て肯定するのは簡単だ。言っている事、やっていることを全て認め、賞賛し、肯定すれば良いだけなのだから。
私はそれは違うんじゃないかと思う。
あなたは教祖様がたのクローンではない。彼等すべてを肯定する必要はない。
あなたの頭はオシャレな帽子をかぶる為にあるわけではない。
あなたの頭はヘアアレンジするためにあるわけではない。
考えて、考えて、考える為にある。
そして、行動する為にある。
スピリチュアルは否定しない。だが、スピリチュアルの思想が歪曲化され、都合の良いように捉えられやすいものである事を考えれば、善良な人間こそ近づくべきではない領域だと思う。
猜疑心の強い捻くれ者こそ審神者に相応しいだろう。
我々ピュアネスフルな人間は(私はピュアネスフルである、異論は認めない)
猜疑心の強い捻くれ者が情報を練り上げ濾しにこして、認めたものを受け取って、さらに自分の頭で判断できるようになってから、あの界隈に近づいたほうが良いに違いない。
何しろ、考える事を放棄した人間を養分にするハゲタカどもが幅を利かせている界隈なのだから。
所詮、ビジネスはビジネスなのだから。
私はいつも、もっとちゃんとしたものになりたい、と思っている。
是非、もっとちゃんとしたものになる為にも互いに思考を磨き続けようじゃないか。