議論するという事。
私はこちらのディスカッションで勉強をさせて頂いている。
https://togetter.com/li/1297896?page=18
まだご覧になっていない方がいれば、是非。
ただ、正直なところこのディスカッションはディスカッションになっていないな。というのがここまでの私の感想である。
本田氏はディスカッションのつもりで対話されていると仰っていたし、そのつもりで何度か話の筋を元に戻している。
では何故信者様と何度もディスカッションにならない齟齬が生じてしまうのか考えてみたところ、
両者の意識の違いがあるのではないかと思った。
ディスカッションとディベートの違いはこのようなものである。
《ディベート-トップダウン
結論が先に用意されていて、その結論に導くために必要な判断材料を取捨選択する
ディスカッション-ボトムアップ
個々の判断材料を用意して、積み上げて、議論を通して結論を導き出す》
私は当初ディベートと表現してしまったのだが、
それは、信者様が心屋心理教教祖様を擁護する立場、本田氏が疑問をているする立場という立場の違いから
お互いが事実を検証しあうものだと考えたからだ。
この場合の結論としては、心屋氏の発言は誤解を招く表現である、になる。
ただ、本田氏はディスカッションのつもりです、と仰ってくださったので、私も記事訂正をしたし、以後そのつもりで読んでいる。
しかし、現時点ではどうも、判断材料の積み上げにならず、個人の価値観や瑣末な表現の違いの挙げ足取りになることが多く、議論の本筋から外れる傾向が強いと思う。
では、判断材料になるのは何かというと、心屋氏の発言一つ一つだけではないと私は思う。どうもこのディスカッションは発言一つ一つを検証しているようだが、それではいつまでたっても終わらないだろう。
言語学的なディスカッションならいざ知らず。
心屋氏に関しては発言の説明不十分さの他に、沖縄の聖地をボランティアすると言ってブログにあげるも、
チェーンソーを使っていたり、雑な神事まがいの事をしたりの問題があったし、マスタークラスではレストラン側に迷惑をかけるような行為を推奨するようだと言う問題点もある。
これらの反社会的な行動に対して、弁解も謝罪もなしに、いいんだよ〜大丈夫だよ〜などと言っている人間の
どこに信頼できる判断材料があるのかわからない。
有名な出版社から本を出している?
ベストセラーだから?
だが、ベストセラーの中には矛盾した主張をするものも多いし、有名な出版社から出版されていても中身の保証にはならないと思う。出版社名などただのブランド価値レベルの話である。
また、その本をゴーストライターが書いた可能性もあるだろう。
私の知っているとあるベストセラー作家など普通にゴーストライターがいる事を公言している。勿論、監修やアイディア出しは自分がするそうだが。
であるからして心屋氏が信頼に足る、素晴らしいと言う判断材料になり得ないだろう。
つまり、心屋氏の信者様方は、心屋氏の素晴らしさを客観的に見てもそうだね、といわれるような判断材料を持って来なければならないのだ。
でなければ、ディスカッションは成立しない。
重要な点は、あくまで信者様視点ではなく、事実に即して、と言う点にある。
反社会的と疑われても仕方ない言動が見受けられているのだから、
社会的に見て彼が問題なく真意をつたえられる、伝えているという判断材料を用意しなければならない。
その上でなければ、着地点は決められないだろう。ディスカッションは双方の判断材料から結論、着地点を見出すものなのだから。
それが正しいディスカッションのありかただと私は思う。
一度、主観抜きに事実だけを並べて精査する必要があるのではないだろうか。