笑える教祖様と冬至の祈りについて思う事

冬至の祈りは監視付きで開催されたようだ。

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監視付き…。

 

信者様界隈ではまあ、隠れ切支丹の如く迫害を受けつつも純粋に祈りを捧げるピュアネスフルな私達的な解釈になるんだろうなあと、予測する。

 

余談ではあるが私は隠れ切支丹の末裔である。

ご先祖様が仏転して約400年、今では立派な時宗で家に神棚もある。

 

江戸時代初期までは、切支丹の末裔として死んだ後も死体を塩漬けしてお上の沙汰を待ったり、死亡報告の義務もあったようだが。

 

まあ、当時の時代背景や秩序を鑑みれば必要な措置だったんだろうなあと思うし、

それについて愚痴愚痴言うようなご先祖様もいなかったので、

郷土史家からそのような話を受けた際も、

そういう時代だったんですねぇ。と思うだけだった。

 

迫害を受けるにはその時代背景や当時の社会秩序の側面があると思うし、

その時代の中に生きている人はそれを受け入れて生を全うしたのだと思う。

 

それが、たとえ不当だとしても。

 

彼らのおかげで私は今ここに生きているのだから。

ただ私は彼らの存在に感謝するだけだ。

 

であるからして迫害を受けつつ祈りを捧げるピュアネスフルな解釈は、

選民思想を満たしてくれるかもしれないが、

それに加えて社会的な損失や社会に与える影響について受け入れる義務も、同時に発生する事を忘れてはならないと思う。

 

信仰は勿論自由ではあるのだが、

社会の中で信仰を貫く上でのリスクや、それに伴う社会からの反応は避けてとおれないと思う。

 

それを押してまで、果たして笑える教祖様へ尽くすべきなのか?

 

と、私は思ってしまうのだが。

信仰は自由なので、善良な人々を不安にさせたり、社会を乱さないのであれば、どうぞご勝手に。

 

笑える教祖様について私はそれ程詳しくない。

 

ただ、まあ彼の行動のみを見ると社会的に逸脱した行動や行為が多いなあと、思ってしまう。

 

Tシャツで伊勢神宮参拝をしようとごねた事。

阿蘇ボランティアでの保健所からの指導。

神域でのボランティア活動を誤解されるような型で発信する事。

信者様方を煽ってお金を集めてギターを買う事。

 

ただ、やはり多くの支持者がいたり、

ベストセラー作家であったり、

浅慮が過ぎるとはいえボランティア活動に積極的にとりくむ姿勢は

素晴らしい点なのかなと、思う。

 

彼はおそらく付け焼き刃かもしれないが私よりも神道や神域について詳しいのだろうから、その礼儀やルールに則った、配慮や神様方への忠義を行動で示せばいいのになあと思う。

 

既存社会から逸脱しすぎるものはやはり叩かれて当たり前であるし、

その上で本当に良いものならば、

意固地にならずとも、先鋭化せずとも、

受け入れられると思う。

 

当たり前なのだが、

既存社会の仕組みに配慮も遠慮もできないような思想が、イノベーションアウフヘーベンを起こす筈はないのだから。

 

意固地になったり、先鋭化せざるを得ないのは、自分たちのしている事に無意識的にしろ多かれ少なかれ疑問を抱いているからだ。

 

本当に良いと信じているのならば、迫害を受けようが、殉教を強いられようが、意固地にならずに、先鋭化せずに、粛々淡々と信仰し続ける事ができる筈なのだから。

 

自らの信仰が社会と噛み合わないからと言って社会に噛みつくような馬鹿な真似はしない筈だ。

 

自分の正しさだけを正当化し、声高に叫びまわる必要など無いのだから。

 

(別に島原の乱を揶揄するわけではない。ただ、あれはもっと上手いやり方がなかったのだろうか、と私は思う。ひょっとしたら、諸外国の思惑を含めた政治的な側面が多分に含まれていたんじゃないだろうか、というのは私の穿ち過ぎだろうか。)

 

私の知己の元神職が彼の行動について一番懸念を示していたのは

 

新嘗祭における祈りの呼びかけだった。

 

私も正直これが、彼の行動の中でも抜群に不味い事だと思う。

 

驚きのあまり、怒りすらわかなかった。正直ぞっとした。

 

私よりも知識が多分にあるだろうに。

 

神職の方々の領域を荒らし回り、

あまつさえ畏れ多くも天皇陛下の領域を荒らし回るとは。

 

新嘗祭のなんたるか。

天皇陛下のなんたるか。

血統の意味とは。

 

彼と比べれば浅慮で白痴で無教養な筈の私ですらちょっと考えれば分かる事なのに。

 

もう終わってしまった事だ。

もう取り返しのつかない事だ。

 

善良な思いと本人達が信じ込んでいるから余計にタチが悪い。

教養が無いのは、致し方ない事なのかもしれない、だが。

 

だが、何故日々神職の方々や天皇陛下が祈りを捧げて下さっているのか、

一体なんのために、

誰の為に祈りを捧げて下さっているのか、少しでいいから考えてみて欲しかった。

 

当たり前過ぎて悲しいのだが、

私達一人一人の為だろう。

 

私達一人一人が世の中のお役に立てるように、

そのお役目を果たせるようにと

祈って下さっているのだ。

 

それなら私達に出来ることは、

祈りを捧げる事ではなく、

与えられた環境の中で精一杯努力し、

自らの役割を果たすべく精進する事以外他にないと、どうして思えないのだろうか。

 

日本には、「分を弁える」という言葉がある。

 

祈りは果たしてあなた方の「分」なのか?

 

私達の「分」はそこにあるのか?

 

信者様方には是非考えてみて欲しいと思う。