差別と区別と棲み分けと

インド人の知り合いがどうしたって本名を教えてくれない事があった。

 

数年後に、インド人は名前でカーストの階級がわかるのだと聞いて、ははあ、成る程、と腑に落ちた。

 

とあるインド映画では、こんな名前じゃあスターになれない!と主人公が嘆く。

結局、主人公は一度死に、スターになって…という物語なのだが、一度転生し、名前と階級を変えないとスターになれない位、インドのカーストは絶対なのかと驚いた。いや、ボリウッド界隈だけなのかもしれないが。

 

また、とあるイギリス人は、ケンブリッジを出てアメフトも強いスポーツマン、まさに文武両道、非の打ち所はせいぜいその典型的なイギリス人的性格にしかない!のだが、出身階級が良くないのだ、と強いコンプレックスを抱いていた。

 

また、イギリス人は階級によって言葉も違うらしい。

それもどうやら気になるらしく、何だか我々日本人には察しきれない何かがあるのだなあと思った。

 

よく、日本は階級社会になったとか、差別だヘイトだと騒ぎ立てる輩がいるが、彼らのDNAに刻みこまれているだろう強烈なコンプレックスに触れる度、よくもまあそんな事が言えるものだと笑ってしまう。

 

日本における階級社会は、平安時代の貴族社会が一番目に見えてわかりやすいと思う。

才能があっても出自が卑しいが為に取り立ててもらえない、チャンスが貰えない事もあっただろう。

 

ただ一方でそのような言葉が書物として残っているのが面白いと私は思う。

 

出自が卑しくとも、歌や文字を学ぶ機会があり、芸術作品として昇華したそれらを遺す事が出来たのは

 

日本の階級社会のある種の緩さの証明のように思える。

 

また、庶民と貴族の社会が基本的には別々になっていたというのも面白い。

貴族と庶民がそれぞれ自ら望んで乖離していたというのは非常に刮目すべき点ではないだろうか。

 

ポリティカル・コレクトネスが叫ばれて久しいが、

 

ポリティカル・コレクトネスとは、政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、

 

職業・性別・文化・人種・民族・宗教・ハンディキャップ・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現、およびその概念を指す 。

 

よく、スピ界隈ではワンネスや全ては一つ、繋がっているというが、突き詰めて考えると、ポリティカル・コレクトネスもまた、一切の区別がない状態を示す事になるので概念的にかなり近いと思う。

 

ただ、一切の差別、区別がない状態は自分達の違いを楽しめない事になるので、これまたつまらないと私は思う。

 

差別は良くないし、階級社会が生み出すしょうもない劣等感やコンプレックスは唾棄すべきものであるのだが、

 

では全てが平等が素晴らしいかと言えばそうではないと思う。

 

結局のところバランスというのが大切で、互いの違いを認め合い、許し合い、楽しむのがベストなのかなあと思う。

 

そうすると、貴族と庶民が互いに自主的に棲み分けていた社会というものはなかなか中道をいっていたのかも、と思ってみたり。

 

差別差別と騒ぐ人々も世の中にはいるが、それが本当に問題視されるべき差別なのか、それとも浅慮や自らの既得権益や利益の為なのか私達は見極めなければならない。

 

ポリティカル・コレクトネスが社会でその存在を大きくすればするほど私達には教養と自立が求められるだろう。

 

キラキラハッピー教祖様がアメリカに出発したそうだが、ぜひこの辺りを肌で感じて様々学んでくれたらいいなと思う。実り多き学びを。