笑えるスピリチュアルと祈りについて思う事
個人的な願いをこめた祈りを私は否定しない。
祈るより他ない事も多くあるし、
人生の様々な局面の中で祈りに縋りたい時もあると思う。
だから、祈り自体を否定するつもりはさらさらない。
ただ、祈りの質について考える事はある。
教祖様が音頭を取り祈りのイベントを開催すると知った時、私は何のための祈りなのか純粋に疑問を持った。
教祖様の心中は赤の他人である私には当然であるがわからない。
だから、私は、その教祖様の成した事でしかその心中を判断するしかない。
政治的なものいいで例えれば、「ご政道」といったところか。
どんなに高尚な志があろうとも、また、美辞麗句を述べられるブログや書籍があろうとも、人はその成した事で判断されるのは、当然だと思うし、
だからこそ世の中の多くの人々が居ずまいを正して生きているのだ。
また、困ったことに大抵の場合、
善行は何もいわれず、道を誤った場合に騒ぎ立てられる。
他人に過ちに大抵の人間は敏感なのだ。
得てして人間なんてその程度のものであるのだから、
李下に冠を正さずの如く、人前にでる人間こそ、他人様からその資質を疑われるような事は慎むべきである、と私は考えている。
それを加味して、私は笑える教祖様がなにを持ってして、集団で祈っているのかわからないと思った。
何についての感謝なんだろう?
スピリチュアルイベントでカジュアルに祈る感じなのであれば、それはそれを奉職している方々にたいしての軽視や侮辱と受けとられないかと思うし、
そもそもこういった祈りをカジュアル化するイベントこそ、それらを軽視した、分不相応で厚顔無恥なものだと思う。
このように私は考えるのだが、
翻って自らがどうなのかと考えると、
まあ大したことのない人間で、
このような御高説は垂れているものの、
パスカルの語る葦の如く、である。
葦は風が吹けば彼方へふらふらこちらへひらひら、弱々しくか弱くたなびく。
その根もまた覚束なく、
雨が降れば地面に打ち付けられ、
日照りが続けば簡単にしな垂れる。
どんなに芯の通った事を記していようとも、
実際に感情が揺さぶられるような事があれば、簡単に中道から逸れる。
ああ、それているなと気がつけるときはまだマシで、手酷い目に遭って始めて学ぶ事も多い。
全く、あちらへふらふら、こちらへひらひらである。
早く竹のような心を手に入れたいものだと日々足掻いている。
パスカルは弱々しい葦である、ただ人間は考える葦だからこそ強いとも言う。
たなびいた時こそ、考える力が必要だなあと思うので、
出来るだけ普段から自立思考を訓練するより他ないと、考え、渋々思考をしている。
自分の弱さを認めるというのは、字面通り受け取るとなるほど危険な言葉であると思う。
それは、【弱くていいよ、今のままのあなたがいいよ】
という甘言に受けとられかねないのだから。
【弱くていい、それは仕方のない事だから。さあ、今からどうしていこう。最善を如何に選択しよう】
弱いままでいて良い、努力を放棄してよいなどという意味はさらさらないのではないかというのが私の解釈だ。
勿論、今のままで良いという意味で使う事もあると思うがそればよっぽどストイックで、生死に関わるレベルで張り詰めている人にこそかける価値があるのでは無いだろうか。
祈りは、祈りでしかない。
世界を良くするために祈りを捧げるのは自慰的な行為でしかないと私は思う。
世界をちょっとでも良くしたいのならば、
電車で席を譲ったり、
身近な人を喜ばせたり、
周囲に気配りをしたり、
礼儀やマナーを身につける方が先ではないかと私は思う。
最低限のそれらすらできない人間に、
祈りを捧げる役割は果たして本当に求められるのだろうか?
(ここでは先天的なもの、血統的な意味は含まない。)
そんな人間のいうことなんて、同じ人間同士ですら耳を傾けないと思うのだが。
まあ、他人の趣味にとやかく言う事は野暮なのでこのくらいにしておくが。
祈りを捧げる行為は自己満足でしかないと私は思っているのだが、
一方で自らの感謝や思いを肉体を持たないものにつたえる手段がこれしかないので、不便だなあと思う。
もっと有効な手段があればひょっとしたら私は祈らなくなるかもしれないな、と思っている。
もし、どこかの信者様の心に言葉が届いたならば、
スピリチュアル界隈なんて、この曲のように振り切ってしまえばいいと思う。
https://m.youtube.com/watch?v=gHuZzSTWHuM
→maroon5 payphon
教祖様も架空の神様も
きっとあなたの愛に応えない。
あなたは小銭を握りしめ、
悔し紛れにぶつくさ小言を言いながら
夢みた、おとぎ話の世界と
かりそめの楽園を、彼らを捨て去り、
地に足をつけ、
自らあゆみ始める必要がある。
いつだってゼロから這い上がってきたじゃないか、と
自らの場所で一生懸命に役割を果たそうと努力するしかなくなる。
そのときやっと、
あれだけ呼びかけていても、
声がかれるほど叫んでいても
ちっとも応えてくれなかった神様がふいにあなたの背を押すかもしれない。
そうであれ、と私も共に祈ろう。
そう、そんなときこそ、
祈るより他ないのだから。