行為否定と人格否定の同一化

行為否定と人格否定の同一化が何故起こるのか、非常に興味深く思っている。

 

一つの仮説としては、自他の区別がつかない事、他者や社会に対し過剰に期待するなどを起因とする共依存的思考や、エゴイスティックな承認欲求が挙げられるのだが、もう一つ面白いなあと思う事例があった。

 

https://cakes.mu/posts/24346

 

以下引用

「エーレンライクやサンダースなどの白人の「民主社会主義者」あるいは「プログレッシブ」にとって、

 

最も重要なのは(特に地方の白人の)「低賃金の労働者階級」であり、彼らが抱える問題だ。

 

この問題に関しては知識もあるし情熱もある。

だが、それ以外のことになると、驚くほど無関心なのだ。

 

無関心だから見えないし、見ようともしない。「自分はもっと重要なことをやっているから、そのほかのことを理解する暇なんかない」と開き直っているところもある。

 

そこが問題なのだ。」

 

その視野の狭さや、それ以外への知識の無さ、対象以外への想像力の無さに対する開き直り。

 

成る程なあと思った。

 

自分以外の意見を聞き入れたくない人間は、おそらく、この状態なのだ。

 

全く悪気なく。

全く悪意などなく。

 

おそらくは、自身の知識や経験を絶対視していて、或いは自身が庇護すべきものに対する者への過剰な情熱が、

 

それ以外の物を見えなくしてしまうのだ。

 

だからこそ、信者様や、情緒豊かな一部の方とは議論ができないのかと、腑に落ちた。

 

今後は、貴重なご意見をありがとうございます。と、記すに留めようと思う。

 

その気持ちは本当なのだから。

そして、それ以外は語るべきではないのだろう。

私の時間もまた、彼等を啓蒙する為にあるわけでは無いのだから。

 

また、以下を自戒として引用しておこうと思う。

 

「こういったことを中学生の頃にアメリカに移住したアジア系の女性と話していたところ、

彼女は「そうね。そういう失礼な体験、私もよくしてきたわ」と自分自身の体験を語った後で、

「でも、私たちも気づかず別の失礼なことをしているかもね。体験していないことを想像するのは難しいから」

と思慮深い意見をくれた。」

 

直近の例で語れば、私自身は虐待をした事も受けた事がない為、被虐待児への想像や加害者への想像は充分ではないのかも知れない。

 

ただ、それ故に道理を説いてはいけないとはならないと思うし、

被虐待児と共に時間を過ごした事もある為、彼らを間近に見た経験から、やはり虐待は許されないと思う。

 

私なりの配慮として被虐待者との接触について詳しく語るつもりは無かったのだが、

 

わざわざ個人的な経験を記さねば意見を聞いて貰えないようで、

 

やはり日本の場合、そこが対話教育の問題だと感じる。

 

わざわざ記さねば対話相手の背景に何があるのかわからないのは

言外に対する想像力の欠如や

相手の意見に対して理解しようとする配慮や、対話自体への興味の無さ、

持論のみを展開したいというエゴゆえの

対話する相手への敬意の無さを示している。

 

それが出来ない状態であるのだから、貴重なご意見をいただいた事に対してのみ礼を示すべきだったのだ。

 

相手はこちらを理解する気など端から無いのだから。

 

私の言葉が差別になる事はあると思う。悪意の有無に関わらず。

 

また、誰かが私を非難する事に対して、私が理不尽だと感じ、ヘイトだと感じることも同じようにあるだろう。

 

人と人が関わるのだから、当然そういった事は起こり得る。

 

大切なのは、その時に相手や自分の意見が

 

1.社会道徳や倫理の観点から見てそれがどうなのか

 

2.それが生まれ持った特性や、先天的になもの、本人がどうしようもないものに向けられていないか

 

3.行為や行動に対するものか、相手の人格や人権を否定するものかどうか

 

を考える事である。

 

正直、この世は理不尽だし、道理とは言え感情的になかなか受け入れ難いものもある事もあるだろう。

 

そういった時に一方的に被害者だと騒ぎ立てるのは、差別被害者への、傷ついたものへの配慮をしろ!と言うのは某隣国と同じ暴論である。被害者ビジネスの意識と同類だと感じる。

 

それ故に、全方位に向けて配慮し、差別にならない表現や意見は非常に難しいし、

 

そうしようと思えば昼行灯のようにぼんやりした意見にしかならず、真意が全く伝わないので、語る意味を為さなくなる。

 

本当に差別について、虐げられる事について考えるのならば、

 

行為と人格、事実と感情の区別をつけなくてはならない。

 

なんていうか、正直、ここからなのかあ〜と、脱力せざるを得ないのだが。

 

本当に心理学や社会心理学を学んだのであれば、行為と人格は別物であり、

罪を憎んで人を憎まず然り、病には適切な治療が必要であると学んでいると思うのだが。

 

似非心理学者も、大学側も、或いは大学院も、何を教えているのか非常に不思議に思う。

 

因みにこれは純粋な疑問であるが、差別と感じる人もいるかも知れない。

注釈を入れておこう、包括的な意見であり、個人を責める意図はないので。

 

いちいち記さねばならないのか。

ああ本当に面倒くさい世の中である。

だが、だからこそ、面白い。