独善偽善と、道理は違う

ああ、ほら、何を言ってもわからない人にはわからないのだから、無駄な労力を使う必要はないだろうにと思いつつ記しておかねばならないようなので。

 

独善偽善と、道理は違いますよ。と。

 

もう、わからない人にはわからないのだから。

 

そしてのんびりやの神様とやらは今世で理解でなくとも人を見捨てはしないのだからほおっておけと思いつつ、ほおっておいてはいけないという働きもあるようなので。

 

羨ましい。独善偽善に酔える人々が、その幼さが。人の親だろうと、私より年かさだろうと、その幼さが羨ましい。

 

さぞかし恵まれた、でも本人にとっては大変な人生だったことだろう。

 

一生不平不満を語っていられるその恵まれ具合ときたら。

まあ。来世はもっと酷い所に生まれるだろうが。

 

独善偽善と道理を混合する時点でお察しである。覚悟のない人生。

腹が座ることなく腹を立てているだけの魂磨きにおいて無意味な人生。

 

羨ましいよ、選択の余地があるのだもの。

 

神はあなたを見捨てはしない。

あなたに相応しいものを送るだけ。

 

全ては回帰し輪廻するまで。

 

独善偽善が生まれるのには、理由がある。

肥大した孤独な自我故にその価値観を保持するのだ。

そんなものなどあるわけないのに。

自我など、大したものではないのに。

 

ただの肉宮の生存本能に過ぎないのに。

それはあなた自身ではないのに。

 

 

独善偽善を信じる人はセーターに人生を委ねるようなものである。

 

セーターの毛糸が引っかかって身動きが取れないのならばセーターを脱げばいいだけである。人生においてなんら不自由はない。

 

毛糸をほぐしてもいいし、引っかかっている部分を切り捨ててもいい。

セーターに、人生を委ねる必要はないのだから。

 

セーターを自我と置き換えればよくわかるのだが、自我なんてそんなものである。

 

単なる生存のためのものであり、不快感を生むこともあるが、人生においては大して影響しないはずのものである。

 

馬鹿げた話。

 

スピリチュアル、神様、日本大好きという人々の自我の肥大化が問題視される事があるが、自我なんてものに支配されるくらい脆弱であるのは、現実世界をサバイブする覚悟が無いからである。

 

彼らがスピリチュアルに惹かれてしまう理由はただ一つ。

 

道理から外れているからなんとか戻りたいという本能によるものだろうと私は考えている。

 

神はあなたを愛さない。

だが。神はあなたを見捨てもしない。

 

それを、人は地獄と呼ぶ。

 

神に愛されたいと願うが故に。

 

全ての人は神に愛されているのに。

愛など全てどこにも簡単に当たり前に意識する事なく、存在しているのに。

 

望む形以外は愛と認めないという傲慢がそこには存在するだろう。

 

とかなんとかつらつら書きながらやっぱり裁きたくなるものだなあと自己自我の肥大化を観察せざるを得ない。

 

真のスピリチュアルは魂の向上を望むものだから、必然人並みの幸せと乖離する道を選ぶ事になる。

…いや。人並みの幸せ最高じゃん?全然求めるし。

 

と、言うことは人並みかそれ以上の幸せや金銭を求める事がそもそも似非スピリチュアルかどうかの分かれ目になるだろう。

見極めポイントはここにあり。

まあ、かといってガチスピはオススメしないけれども。

 

ああ、また明日から忙殺の日々が始まる。