教祖は死なず、信者は弁慶の立ち往生をする

野望なき野郎どもへ feat. TOSHI-LOW 

東京スカパラダイスオーケストラ

 

法律それ以外で
裁くのは私刑(リンチ)だ
愛のない正義は
取り下げろ

 

名曲だよねぇ。は、さておき。

 

教祖様がたが糾弾されるのはまあ仕方ないと思う。法律で裁くためには被害者や被告人が必要なのだれども大抵は泣き寝入りをするし、教祖様への注意喚起も社会的に必要だと思う。

 

ちょっとどうなのかなと思うのは、信者様方への私刑に似た揶揄や非難である。

 

まあ、そんなもの届かない幻想の中にいるのかも知れないが。

いつか我に返ったときに、デジタルタトゥーと罵詈雑言に耐えられるのだろうか、と心配になってしまう。

 

このブログでは教祖様をdisる事有れども信者様方には基本的に触れない。

(先日の子宮教信者様は例外的に触れた。命の危険があると感じた為。)

私は信者様方がいつの日にかスピリチュアルを離れて日の下で地に足をつけて自立し歩みを進めて欲しいと考えているから。

 

間違いは誰だってするだろう。

 

信者様方は頭は足りていないかもしれないが、もう一度歩み始める権利があるはずなのだから。

 

私のブログは教祖様がたへの私刑に似た意味を持っている。

 

法律で全てを裁くことが出来たら良いのに。

そうしたならば誰も私刑の快感など知らずに生きていけるだろう。

 

裁く、正義を振りかざす、その快感たるや。

全知全能の神の如し。

幼児的万能感が満たされる。

 

これこそが現代人の多くが抱える原罪のようにも思える。

 

裁きの権利など誰も有してなどいないのに。

 

そして、これこそが私がガチスピから突きつけられている一番の課題だと思っている。

 

自戒として記す。

 

私ななにかを守るとか護ると言う言葉をあまり好まない。

裁きの、他者批判の、攻撃性の最も都合の良い肯定にしかならないから。

 

人に刃を向けるときは、同じく自分にも向けられるものである。裁くときもまた同じく自分も裁かれているのだ。

 

穏やかに楽しく生きていきたいものである。

 

さて、明日は年末の試験第一弾。頑張りましょうかね。