心屋氏の信者様について思う事
こちらで非常に有意義なディスカッションがなされている。
https://togetter.com/li/1297896
御二方とも大変聡明である。
理解しあえないと距離を取らずにしっかりと粘り強く対話し、互いに向き合う事、本当に素晴らしいし、果たして私はこの議論についていけるくらいの教養があるのか…正直自信がない。
私も非常に勉強させて頂く事の多いディスカッションだなぁと思う。
心屋界隈について私は無知であり、現実世界で関わらず過ごしてきたのでこの界隈への批判材料はほとんど持ち得ない。
であるからして、基本的にはキラキラハッピー教祖様界隈より第三者視点から見ることができるのではないかと思う。
正直なところ、この聡明な御二方のディスカッションは平行線を辿っていると思う。
なんでかなあ〜と、考えた時、ひょっとしたらここだろうか?と思うことがあったのでここに記す。
《今年の8/31に、心屋仁之助さんが、オフィシャルブログのコメント欄に相談を投稿してきた、宿題に疲れた小1親子さんに回答したなかで「叩かれるために生まれてきた」》
御二方の議論の中核はこの是非にあると思う。
私が興味深いな、と思ったのは
《# 番外編…臘虎さんが私と黒猫ドラネコさんを間違えてリプライを返したところから生まれた流れ》の部分。
《心屋さんならレ*プ事件ですら
「キミはレ*プするために生まれれきたのよ」
「キミは、レ*プされる「役目」を負わされたのよ」
とかいうのかと思ったのに。
「キミの娘さん
叩かれるために生まれてきたのよ
キミは、叩く「役目」を負わされたのよ」
なんていっちゃう人だから》
と、いうある意味揶揄を含んだ皮肉ツイートに対して、
《まず心屋氏に相談してもいない方の文章への氏の発言を持ち出した、かさこ氏、この方が普段からレ※プ被害者を支援する発言をされているならまだ分かりますが、見た限りそうではないことに私は嫌悪感を感じます。リツイートした黒猫ドラネコさんも本田さんも、そこに嫌悪感を持たれないのか不思議です。》
と、信者様が反論をした。信者ならば当然怒りを感じる部分だよな、と私は思った。
《私は心屋氏が相談者の悩みを解決するために言葉を使う姿勢は一貫していると思います。 本田さんは何故、言葉に一貫性を求めるのですか? 悩む親の数だけ答えはあるという点では、私と意見が一致しましたよね。ならば個々の相談者に対して、言葉が同じにならないことも、ご理解いただけませんか?》
まあ、このツイートを間違えて黒猫ドラネコさんに送ってしまったわけだ。
※ちなみに本田氏はこれに対して、クローズドな場であれば問題ないかもしれないが、ブログのような拡散性の高い場所での発言としてはいけないと反論している。
黒猫ドラネコさんは本田氏と同じ見解を示した後、こう反論する。
《心屋氏の狙いは「心屋の考え方をすれば楽になる」とブログの読者に示すこと以外になく、
相談の深刻さや複雑な状況を汲んだり配慮したりなど全くないことは、言葉使いやふざけた姿勢からも読み取ることができると思います。
元々が、人に迷惑をかけていいという精神なので仕方がないことではあります。
信者の相談者を含めて楽になる人がいるならいいじゃん、で済ませてはいけないのは心屋氏の「子どもを叩いてもいい」を例にすれば分かるのですが、
悩んでいる人以外は傷付けられてしまうという視点が全くないことです。
「言われて本当にそんなことする奴はいない」なんてガバガバの理論です。
子どもを叩いてもいい、と不特定多数に発信すれば、「あんなに本を出してたくさんの支持者がいる人がいいって言ってた」と捉えて実行する人がいます。
実際にそれで子どもが殴り殺される。いくら心屋氏が「そんな奴に対して言ってない。心配しすぎ」と言っていても、事が起こってからでは遅いのです。
心屋氏らは、批判に対して「悪い方でなく楽なことを考えよう」などと論点をずらしがちですが、叩かれる子どもは楽でないし苦しみます。
心屋を妄信する人以外は皆分かっている。だから「叩かれるために生まれた」という暴論が、相談者を救ったとしても新たな悲劇を生むことに批判が殺到するのでしょう。》
それに対して、信者様はこう返した。
《あああぁぁorz、申し訳ありません。本田秀行さんに返信したつもりでした。どこを間違えたんだろう? 黒猫ドラネコさんともお話してみたい気持ちはあるのですが、今の私の力量では無理です。本当に申し訳ありませんでした。本田さんとのやりとりを見守って頂ければ幸いです。》
正直、え?、と思った。
正直、彼女の聡明さを持ってすれば、本田氏より黒猫ドラネコさんの情緒面に寄った反論の方が覆しやすいのではないか?と私が感じからだ。
そこに違和感を感じた。
私は心屋氏に迎合するつもりはまるでないが、そんなのただの杞憂じゃないか、とか、実際には起こっていないとか、心屋氏の本で虐待が増えたという証拠でもあるのかとか、感情面によれば、社会への信頼性が足りないとおもうとか、まあ反論の切り口はあるんじゃないかと思った。
(いやあ、それでも相当苦しいなあ。私の語彙力っていうか能力の底が知れる。)
ここで私に一つの仮説が生まれた。
信者様方は、多分、相当、情緒面が発達している人が多いんじゃないだろうか。と。
だから、情緒性を多分に含んだ反論に弱いのではないかと。
だから、心屋氏の論理かつ倫理的におかしなというか破綻し切った言葉も
脳内補正する事が、無意識下で自然にできて、
【どうして心屋氏が批判されるのか理解出来ない】と、おもうのではないかと。
いや、本当に単純に言葉通り信じ切ってる人もいるんだろうと思うのだか。
まあ。一つの仮説として。
価値観の背景に、まずは純粋な善意を持っている人が多いんじゃないかなあ、と。
(歪んだ認知と言うことなかれ。おそらく善意と信じたい。)
だから、心屋氏が倫理【りんり→人の守るべき道筋、秩序】に背くような発言を公の場で言ったり、記したりしても、
無意識下で善良フィルターを通して、彼の言葉を補正しているんじゃないだろうか。
例えば、
叩いてもいいよ。
【それくらい辛いんだよね。でも大丈夫だよ、貴女はそんなことしないって信じてるからね。】
とか、
叩いてもいいよ。子供は叩かれるために生まれてきたんだから。
【なんてはずないってことくらい、貴女にはわかっているよね、じゃあどうしたらいいとおもう?
大丈夫、貴女は最善を選ぶ力があるよ。大丈夫、時々は間違うこともあるかもしれない、
でも、我慢しないで上手に相手に気持ちを伝えてごらん、貴女にはそれができる聡明さがある。
だって叩いちゃ駄目だって苦しんでる貴女にはそれがわかるんだから。】
とか。
言外を情緒的で道徳的な言葉で補正しているんじゃないだろうか。
(歪んだ認知ということなかれ。他者と自己の区別が、ついていないとか、客観的に言葉を見る力が無いというなかれ。多分に善意で情緒的な方々なんだと信じたい。)
いや、心屋氏も、もしかしたら、初期の頃は、善良な気持ちでこの言葉を語っていたのかもしれない。
私はテレビ番組で一度見たことがあるくらいで彼の書籍を読んだことがないのでこれは私の想像に過ぎないのたが。
善良な人々が信じきる背景にはそれがありそうだよなあと思う。
嘘に真実が混ざっていると分かりづらくなるのと同じように、反社会性の中に善良さが混ざっていたら分かりづらい気がする。
しかし、実際、私が問題の心屋氏のブログを読んで感じた事は
「何言ってるんだ。この人。訳がわからん。」である。
件のブログは【ぢんさんの教えのお陰で自責の念が解かれて余裕が生まれて全てうまくいきましたありがとう】と言う内容であったと私は解釈したのだが、
これはこの個別のケースにたまたま上手くいく要素がたくさんあり、
本当に奇跡的な偶然が重なって上手くいったに過ぎないのであり、
心屋氏の教えやアドバイスが良かったからという証明にはならないと思った。
だから、ブログで紹介するには適さないアドバイスとケースなんじゃないかな、と思った。
私は心屋氏の教えについて深く知り得ないので、【叩いてもいいよ。】の字面から判断するしか無い。
しかし、倫理的、道徳的にどうなのだろう、これはとんでもない暴論で極論なんじゃないかと疑問が浮かぶので、
彼の過去の行動を簡単に調べる。
彼の教えの背景を理解する為に大抵の人間はそうすると思う。
心屋氏の教えや感情や上手くいったケースではなく、客観的指標が必要だから
彼の実際の行動を見て判断する事を選ぶ人が多いと思う。
カウンセラー養成講座は随分と高額なんだな、とか、
その教えの中にレストラン側に迷惑をかけるような食べ方を強制するメソッドがあるのだな、とか
沖縄の地元民以外の不可侵の神域に、どうも勝手入り込んで、勝手な自己満足的ボランティア活動をしていたんだな、とか
ネットワークビジネス周りをうろちょろしているキラキラハッピー教祖様と懇意な時期があったようだな、とか
流産はしたくてしてる、と、本当に発言しているんだなあ、とか
心屋教はカルトです、と言い切っているんだな、とか。
でも多くの人に支持されているからたくさん本が出ているようだな、とか、
ベストセラーもあるんだな、とか、
あ、結構大手の出版社から本を出しているな、とか
講演会を開けば席が埋まるんだな、とか
そう言った実際の発言や行動を鑑みて判断をする。
その上で、不可侵の神域ズカズカ入っていったり、
比較的高額な養成講座でレストラン側に迷惑をかけるような行動を推奨するような人間の教えは、
いくらベストセラー作家であっても、
だれかの心を軽くするものであっても、
反社会性を多分に含んでいる可能性がある。
社会的、道義的観点から非難されても仕方ない行動が随分多い人のようだ。
だから、この教えは危ない、と啓蒙活動をする人がいてもおかしくないだろうな、と思う。
だから、【叩いてもいいよ。】の背景には、信者様方のような優しい言葉を補完して読むことがかなり難しく、
字面通りに思っているんだろうなあ、と解釈され、非難されるのだ、と思う。
心屋氏の教えは雑で言葉足らず過ぎるし、もし、信者様方の脳内補完の意図があったのだとしても、
不特定多数の相手や人間にわかりやすく伝えられるように言葉を尽くしたり、
行動で示していない時点で、随分不親切なカウンセラーでベストセラー作家だなあと思う。
その上で、本田氏と信者様の議論を
心屋氏のブログを通してアウフヘーベンする言葉はないかなあ〜と
余計なお世話ながらも考えてみた。
マジでいらんお節介であるのだが。
【批判は承知でいうのですが】
【誤解を恐れずにいうのならば】
という枕詞を心屋氏のブログの
【子供を叩いてもいいよ。】
の発言前につけるのはどうだろうか。
そうすれば、心屋氏が本当に深い考えを持って個別のケースに対してその教えを説いているのならば、
その理由を説明する必要性が出てくる。
誤解を恐れずにいう事は、何故ならば〜という接続詞に繋がるのだから。
その上で、ちゃんと社会的道徳的に配慮しているし、それでも苦しんでいる誰かの心を楽にしたいんだよという目的があるのだとしたら、それも伝わりやすいんじゃないかなと思う。
ただ、【死んでもいいよ】は、本当に言うべきでは無いと思う。
自分の命をかける位のつもりでしか言ってはならない言葉だと思う。
そこは誰かの命や人生を本気でどうにかしようとか真剣に向き合う覚悟のない人間が言っていい言葉ではないのだから。
それを覚悟の上で、
【批判は承知でいうのですが】
【誤解を恐れずにいうのならば】
として、説明してくれたらな、と思う。
大抵の人間は心屋氏の信者様方のように情緒面が発達した善良な人々ではないのだから、ちゃんと言葉を尽くして理解させてほしいと思う。
だからこそ、心屋氏の信者様方が気の毒だと思う。
心屋氏の言葉足らずの所為で誤解を受けていると思う。
もし、心屋氏の頭が足りていなかっただけなのだとしたら、信者様方があんまり可哀想だ。
頭の足りない教祖様のために優しい情緒面が発達した信者様方が社会から乖離していくのは気の毒だと思う。
ただ、信者様方も、ひょっとしたら同情したり、共感したりする相手を間違えているだけかなとも私は思っているのだが。