福島とスピリチュアル考

こちらの記事を拝読して、感じた事があったので記しておく。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58962

 

私には、3.11時は青年海外協力隊でアフリカにいて、その後、福島に帰ってきた友人がいる。

 

友人は風評被害真っ只中の福島に帰ってきた。海外に住んでいたから、風評被害は日本国内よりずっと凄かったと思う。

 

それでも、福島に帰る事を選んだ。

 

その潔さや、腹の座り方に私は感動した。

 

別に、これは放射能が怖いからと言って福島から離れた方々を責める意図があるわけでも、つもりもない。

それはそれで一つの価値観であり、一つの選択であろうから、それで良いのだと思う。

 

生まれ故郷を捨ててまで家族を守りたいという切なる願いや、その為に行動するということもまた大変な事なのだから。

 

ただ、当事者以外の我々がやいのやいのと放射能汚染が〜…フクシマが〜…とやたらめったら騒ぎ立てるのは、

 

福島に住む方、覚悟を持って様々な選択を強いられた方々に対して、非常に失礼な事だと思う。

 

騒ぎ立てるのであれば、それ相応の覚悟を持って言わねばならないと思う。

 

当事者にしっかりと向き合う覚悟、当事者達の気持ちに配慮してこそ、語っていいのだと思う。

 

だから私は福島についてなかなか口にするのが難しいなあと思うのだが、

問われた際は、

 

「様々な課題は抱えているかもしれないが、福島にはまだたくさんの方々が住んでいて、福島の良さを伝えようと懸命に努力している。それだけ魅力的な場所なのだということだけはハッキリ言える。」

 

と言う事だけは必ず伝えるつもりでいる。

あと、偏見がない方であれば、福島って美味しいものが多いんですよ、ってのも付け加えておくべきかも。


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げに美しき猪苗代湖

 

さて、この記事の本筋は福島についてではない。

 

【問題はあくまでも、人々の祈りや祝福の文化であるはずだった「スピリチュアル」が、現実から離れた「独自の信念」──あるいは「信仰」によって、たとえば藁をも掴む思いの人々の恐怖につけ込み、無用な不安や苦しみ、リスクを与え、かけがえのない時間や財産、ときには命すら奪う存在となり、本人のみならず周囲の人たちや社会までも巻き込んで不幸を生み出す「呪い」へと変質しまった場合です。】

 

と、いうところ。

 

これこそが、スピリチュアルビジネスの抱える一番の問題点だよな、と思う。

 

記事の中では

 

【なにより大事なのは、そうやって「溺れる人が藁をも掴む権利」自体を護ろうとするよりも、藁の代わりに掴める別の「希望」を、拠り所を、一つでも多く社会に増やしていくことなのです。】

 

とあり、社会構造の問題点にまで言及している。

私も大筋同意する。

 

ただ、私はそもそもスピリチュアルにハマる人々が、

社会構造や、社会自体に疑念を抱いていたり、

社会から爪弾きにされたマイノリティであるとか、

既存の社会の中では生きづらさを感じている人々が多いだろうから、

 

(ただそれは社会に責任があるような問題ではないのだが、そういった人々の認知の中ではそうなのだと思う。)

 

社会的な藁を増やしたところで掴みにはいかないだろうな、とも思う。

 

社会に対するそもそもの疑念と言うか、社会に対する不信感と言うか、

 

そういった被害者意識と言うべき認知の歪みの改善がまずは必要だと思うし、

 

勿論、社会的な藁を増やす必要はあるのだが、藁の質や、縋る藁を自ら選べる自力を育てる必要があると思う。

 

スピリチュアル界隈に特化して言えば、好き好んで藁に縋っている人々も多いと思うからだ。

 

【それらを妨げ不幸を増やす「藁」と、それを支えるデマやフェイクニュースそのものには毅然として対峙する一方で、「藁」を掴まされてしまった人がそれに気付き、戻ってきやすい社会を目指す必要もあるでしょう。】

 

これが一番大切で、私達が唯一できる事なんじゃないかなと思う。

 

藁に縋りたくなる気持ちもわかる。

藁でもいいから何かに支えて貰わなければ立つことすら覚束ない事だってあるだろう。

 

ただ、願わくばそれが藁かどうか判断できるように。

ただの藁だと気づいたならば、それを手放して現実世界に戻ってくる勇気を。

 

自分が、社会から爪弾きにされるのは、社会の中で生きづらさを感じているのは、

社会が悪いと言ってしまえば、大抵の事は解決した気になるので、それまででしかない。

 

そう言った意味で、

社会が悪いからなんていうのは、自ら学ぶ事を放棄し、努力する事を放棄する宣言に過ぎないと思う。

 

社会は確かに不完全かもしれない。

マイノリティに対して、様々な我慢や辛さを強要することもあるだろう。

 

ただ、その理不尽さを甘んじて受け入れ、生きづらさを抱えながらも生きている人々も多くいる事を忘れてはいけないと思う。

 

社会を変える必要は勿論あるかもしれないが、それに甘え、全て社会に責任を負わせ、胡座をかいて、自らを変える必要がないと思ってはいけない。

 

社会を作っているのは、間違いなく自分達一人一人だということを忘れてはならないと思う。

 

スピリチュアル界隈にいる方々に、どうか届くといいなと思う。