他人と自分の区別をつけるという事
スピ界隈をぶらぶらと見ていると、
他人の目線が気になって…
自分を私は生きていない!!
という一つのプロトタイプがあるのだなあと思う。
だから、
《自分を生きる》と言うワードがやたらと響くのだろう。
マーケットの流行り言葉は自分を生きるかなあ、まあ、私がスピ界隈で稼ぐ事を考えたら、コンセプトはこれで行こう!と判断するだろうと思った。
稼ぐ気はさらさらないので、アレだが、逆を言えば、《自分を生きる》《自分を愛する》はマーケティングを意識した言葉だろうから、スピ界隈では注意が必要かもしれない。
自分を生きる為にはまずは自分が何者か知る必要があると思う。
気分の良い事ばかりやるとか、気分良く過ごすだけで自分がわかるのならば、
先人たちの苦労がなんだったのかという話になるのでトンデモ論として脇に置いておくが、
自分を知ると言うことは、自他の区別をしっかりつけると言う事にも繋がる。
誰かが言っていたから真実だ、とか、
これさえやれば幸せになれる、とか、
私が不幸なのは親のせい、とか、
まあ、このへんの発想はそもそも自他の区別が付いてないよなあと思う。
誰かはあなたではないし、何かはあなたではないし、親はあなたではない。
当たり前だが。
ただ、真実かどうか判断するのはあなただし、幸せと判断するのもあなただし、不幸だと判断するのはあなただ。
そこの線引きって実はものすごく大切なのではないか、と私は思っているのだが。
スピ界隈の方々はどうも分別をつけるのが苦手な様子である。
私自身、スピリチュアル的なアレと浅からぬ縁が無きにしも非ずなのかなあ〜…と言う時期が微かにあったのだが、
そういった深淵を覗くにつけて思うのは分別の大切さである。
分別をつけるという事は、すなわち線引きをはっきりさせると言う事である。
あの世とこの世
彼岸と此岸
自分と他人
人とそれ以外
境目が曖昧になるほど恐ろしい事はないとおもう。
人以外のものと関わるとき、
それが、スピリチュアル的なアレにしろ、動植物にしろ、学問にしろ、
強く引っ張られるのは人の方なのだとつくづく思う。
だから、私は基本的にはスピリチュアル的なアレらやその界隈については特に分別をしっかりつけるべきだと思っている。
鳥居や注連縄なんかで目に見えて区別されているならまだわかりやすくていいが、
目には見えない聞こえないものにいつのまにか強く惹かれたり、引っ張らたりしたのではたまらない。
気づかぬうちに、取り返しのつかない事態になるのも恐ろしいし、何より分別はきちんとつけたいと思う。
おかしな事が起きてもそれも事実。
と、事実を見つめる事と同じくらい、
感覚の境い目が曖昧にならないように分別はつける事が大切だと思う。
分別とか言うと、差別だとか言う方々も出てきそうだが、区別と分別と差別は違う。
同一視している時点で教養不足だと思うし、立て分けることと、見下す事はまるで違う。
等しい目線で見てわたし達は違う、と言う事と、
上から見下したり下から睨め付けたりしながらわたし達は違う、とするのはまったく意味が違うのと同じ事だ。
自分を生きると言う事はすなわち分別をつけると言うことに等しいのかもしれない。
分別をしっかりつけられるようになり、立て分けることができるようになった時、等しい目線で自分とそれ以外を見ることができるようになる。
その時、真の意味で自分を生きる事の土台が作れるのではないだろうか。
自分最優先で生きる事は自分を生きるとは言えないと思う。
それは、自分勝手に生きるとか、自己中心的に生きると言うと思う。
我慢して周りに合わせてきた反動で、自分勝手したくなる気持ちもわかるのだが、
そもそも我慢をし続けたのは、我慢を選び続けたのはあなた方なのだ。
自尊心の代わりに食う寝るところに住むところを選んだのは、いい大人ならば間違いなく自分自身の責任である。
それしか道がないと思い込んだのも、
親やパートナーや上司の言う通りにし続ける事を選んだのも、
自分で考える気力もないからと流されるままに耐え続ける事を選んだのも、
何も選択しないと耐え忍び続ける事を選んだのも、
結局のところ、自分なのだ。
いちいち外に探しに行かなくても、声に出して愛していると宣言しなくても、
一分一秒たりとも離れずに自分とともにいるのである。
どこをどう探してもあなたの夢見る自分はどこにもいるはずがない。
一番側にいて死ぬまで付き合っていくしかない、つまらない自分がそこに居るだけだ。
それに気づいた時、誰もがちっぽけで思い通りにならない自分を飼いならそうと悪戦苦闘している世界にいる事に気がつけると思う。
自分だけではなく、誰もが少しずつ生きづらくて、つまらない自分でしかない現実の中で生きている事に気づくと、誰かにちょっと親切にしたいなと、思えるのではないだろうか。
案外、親切や配慮が生まれた背景はこんなものなのかもしれないな、と思う。