世の中の変遷について思う事
立春間近の昨今やらねばならない事が山積みなのは私以外にも社会人なら多くの人が感じている事と思う。
お互い頑張って乗り切りましょうね。
最近、望む望まないに関わらず様々な乖離が世界の様々な場所で起こっているよなと、富に感じる。
それが、何故だか私にはわからない。
スピリチュアル感覚器官の発達している人々に尋ねるか、本物のスピリチュアルを生業にしている人々に聞けば良いのだろうが、
良かれ悪しかれ起こっていると私が感じ、認識しているのだから、仕方ないし、しようがない。
理由があろうと無かろうと起こっていることは起こっていると認めるより他ないのだから。
だから、結局理由を尋ねることもせず、ただ日々を淡々と過ごしている。
別れの予感がひしひしと漂い始めていて、ああもう既に違う場所に行かねばらないのかと思う。
願わくば良き学びを得る事ができますように。
まあ、何の話かといえば、
最近の世の中の変わりようってすごいですよね、加速度ついてませんか?と言う話である。
私が界隈と関わっていた時分は、よもやこのような事を語る事になるとは思っていなかったし、
フラットに自分の意見を発する事ができるとは思わなかった。
おかしな事をおかしいと言う事ができない環境だった以前を今この時に振り返ってみれば、
やっぱりおかしな世界だったんだなあと思う次第。
マス的な一方向からのコミニュケーションは今振り返ればアウシュビッツだったのかもしれない、なんて思ってみたり。
バイラルで双方向のコミュニケーションが当たり前になりつつある今、私達には教養と自立と対話力が求められるだろう。
アウシュビッツを生き延びた人々の多くは、善き人間は誰一人として帰ってこなかったと語る。
生還できたのは、まだ若く、そして収容所で生き延びる方法を素早く学んだからだった、と。
「生き延びる方法を覚えた。集団で歩くときには、最前列や両端にならないよう気を付けるのが肝心だった。常に集団の真ん中の方にいるようにして、犬や看守、囚人を殴って来るカポ(監視役の囚人)たちから離れていなければならない」
「何としてでも、懲罰を受けるような目に遭わないようにすることが基本だった」
ヒューマニックな視点を外し、この言葉を考察したい。
それは、許す許さない、良い悪い、好き嫌いではなく、考えるということである。
(余談ではあるがいちいちこのような注釈を入れる事自体が現状の大きな問題点だろうなあ、と私は考えている。)
善き人々は、誰かが傷つくよりも、自分が耐えることを選ぶ。
ヒューマニックな視点で見ればそれは美徳であり、素晴らしいと思うし、正直彼らの心中を察すると涙せずにはいられない。
そういった善良な人々のお陰で今の私達がある事を決して忘れてはならないだろう。
ただ今は、マス的世界のアウシュビッツ後をどうサバイブするのかと言う話をしたいので、ヒューマニックな視点は外す。
ヒューマニックな視点を外してみたとき、その選択は必ずしもベストであったとは言えない。
生き延びる事を最優先した人々は、知恵をつけ、学んだ。
それはある種の自立であると私は思う。
与えられた環境に適応し、自ら考え、学び、コミニュケーションを取った。
私達に今後求められるのはまさにこれである。
放たれた世界で、与えられた環境にいかに適応し、いかに考え、いかに行動し、いかに他者と自分の生き延びる為の最善解を導くかと言う事。
依存心の強い人々は自ら望んでマス的世界のアウシュビッツに閉じこもるだろう。
そうして、彼らが望む限り教祖達は生まれ続けるだろう。
さて、これからの世の中はどうなっていくのだろうか。
アウシュビッツの扉は開かれた。
あとはあなたが選ぶだけ。