子供騙し考

平成も残すところ後僅かであり、瞼を一瞬閉じて開けたらもう三月かと驚いた。

 

日々の忙しさに磨耗していると季節や暦の移り変わりを感じられなくなるのが恐ろしいなと思った。そういえば今日の雨はいつもより静かで柔らかで、春の雨に変わっているなと気がついた。

 

 

先日、キラキラハッピー教祖様ともコラボレーションしていた炎上絵本作家の新作を目にしたが、

内容があまりにも酷くて驚いた。

 

一応、キャラクターの版元が公式認定をしているようなのだが。

 

版元も忙しさに心を無くした状態だったのだろう。

 

何を語りたい絵本なのか全く良くわからなかった。

 

子供の読みものだからと絵本を馬鹿にしたり、舐めたような作品にしてはならない。

子供は存外賢いので、大人の鑑賞に耐えられる作品でなければ、彼らはすぐに、自分たちを騙そうとする「子供騙し」であると気がつく。

 

私は自分が子供の時、自分を子供だと認識していなかったように思うし、今も子供時代も核の部分はあまり変わらないように思う。

 

社会的に見て自分が子供である事は認識していたのだが、思考し、思案し、思いを巡らせる時に自分が子供だなどとは露とも思わなかったと思う。

 

だから、子供を対象にした作品群こそ手を抜く事が出来ないし、微に入り細に入りとかく素晴らしいものでなければならないだろうなあ、と考えている。

 

子供は大人が考えているより大人である。

 

求められれば、子供を演じることも、無邪気を演出することも出来るし、胎内記憶や神様の捏造くらいするだろう。

 

恐ろしいのはその無邪気さ故に、あるいは社会経験の乏しさ故に、それを真実であると思い込んでしまったり、周りの大人達が喜んでいるのだから、正しいとか良い事であると思い込んでしまう事にある。

 

子供は視野が狭い。

世界が狭い。

 

それ故に、間違ったことを自分の中の真実や正義として取り入れてしまうことも多いし、理不尽に気がつかずに受け入れてしまう事もある。

 

だからこそ、年を重ねて、社会を作り上げていかねばならない立場の大人達が道理に沿って、

子供たちにたくさんの事を伝え、学びの機会を与えなければならないのだろうが、

 

それが出来ないばかりか、子供たちに自分の夢や理想やキラキラスピリチュアルや歪んだ母子関係像を押し付けるのは、許せないと言う怒りを遥かに凌駕して、

 

純粋に、気持ち悪いと思う。

 

例えるならば、性的な歪みを子供に押し付けているような、生理的な気持ち悪さを伴う不快感、とでも言おうか。

 

時間は「基本的に」不可逆性を有している。

 

ということは、時間の蓄積や経験の蓄積がある側により責任があるのは当然なのではないだろうか。

 

子供に受け入れきれないような期待や歪んだ願望を押し付ける大人達の無責任さは、

子供達をひとりの人間として扱っていない、所詮は子供だからと軽んじている、あるいは子供だからと過剰に神聖化している薄気味悪さがある。

 

あなた方も子供だったのだから、その時分にこの有様を体感したらどう考えるかわかるだろうに。と嘆息せずにはいられない。

 

かの絵本は胸糞悪く途中で読むのをやめたが、途中までの私の感想としては、

 

負けず嫌いと、マウンティング気質は違うと思うよ、と言うことだ。

 

他者との比較でしか自分を表現できない人間ばかりなわけではないし、

そもそも閉じた世界で、二元論的にアレは誰々よりちゃんと出来る私が素晴らしいとか、できない私は全然ダメ!と言う思考はかなり認知の歪みが進んでいるとしか思えない。

 

多様性が認められないような内容の絵本では子供に無用のマウンティング気質を植え付けることになるかもなあと感じた。

 

〇〇はうまくできないけれど、◾️はうまくできる、それが私。

〇〇は今はうまくできないけれど、上手にできるように前向きに楽しく練習をする、それが私。うまくいかなくてくじける事もあるけれど、それも含めて楽しい。

 

と言う内容ではいけなかったのだろうか?と疑問に思った。

 

まあ、作者の性癖が作品に投影される事はよくあるし、

ワンピースのヒロイン達がやたらと奴隷な過去を持っていたりとか、

セーラームーンに出てくるスーツやタキシードで制服着た中学生とデートする医大生みたいなものだと思えばまあまあ、読めなくは無いのだろうが、

 

歪んだマザコンなんだろうな、と思った。

 

池袋連合が存在していれば、これは相当馬鹿にされる案件なんじゃ無いだろうか。歪んだマザーファッカーが頭なんて、恥ずかしいと思う。

 

ただそれだけの事である。