惰性について
時間がないなあと思うときほど、存外惰性に時間を取られている事がある。
惰性とは
① 「慣性」に同じ。
② 今まで続いてきた習慣や癖。 〔「附音挿図英和字彙」(1873年)に inertia の訳語として載る〕
と言う意味なのだが。
要は、
ダラダラと、漠然と、癖だったり習慣だったりで、何かをする様を表している。
気分転換にネットを見るのは良いのだろうが、ポカっと空いた時間に手元や思考がなんとは無しに寂しくなってついつい無意識的にネットを開く、あるいは寝る前のスマホなどは典型的な惰性だろう。
ついついやってしまうのだが。
惰性で物事をなしているときは、時間の感覚が曖昧になり、さりとて積極的に動きを変えるつもりにもならず、だらだらと慣性に身を任せてしまう。
多分、疲労状態なんだろうなあ、とぼんやり考えるものの、今すぐに疲労回復に努めるわけにもいかないので、だらだらと惰性に身を任せてしまう。
まあ、役立たずな時間もまた愛しいものであるし、愛しいものほど役立たずと言う言葉もあるので、まあまあ仕方ないなと思って惰性を楽しんでいる。
転じて、キラスピ界隈の人付き合いは惰性であるのだが、
人生にイベントやら大事件やらキラキラハッピーな奇跡やら、シンクロニシティ万歳やらのゴージャスでドラマティック最高思想が蔓延っているので、
惰性を楽しむ余裕が無いのは気の毒だなあと思う。
ついでに言えば与えられた環境で最大限努力していれば、いちいちドラマなど求めなくてもメイクドラマになるものだ。
ここでは無いどこか、
これではない私、
求める事自体は否定しないが、いずれにせよ、今の自分から変わるしかないわけで
魔法のステッキもなければ、
神の啓示も
(神の啓示など要は、単なる神さまの都合の良い道具に選ばれましたと言う貰い事故のようなものだろうと私は考えているのだが。)大抵の場合はないのだから、
どんな自分であれ、惰性で生きてきた、ぼんやりした人生であれ、きちんと認めて受け入れるべきだろう。
私の最近の一番の惰性は休憩室のコーヒーがやめられない事である。飲みたいとか飲みたくないでは無くなっている。
コーヒーが冷めるまでまたネットをだらだら見てしまう事だろう。
まあ、惰性でキラスピ界隈の人間関係を整理できないよりは、随分マシかなと思う。
安いコーヒーの味で舌先が鈍っていく恐怖とともに、そんな事を考える。