祈りは果たして意味を成すのか

3.11になると祈りましょう、という人々がいるが、役割を果たしてくれている方々がバチカンやら何処やらで毎年やってくれているし、素人が祈りイベントで荒稼ぎするくらいならば、yahoo募金でもすれば良いと思う。

 

哀悼の意を表するのであれば、ご冥福をお祈りする暇があるのならば、その思いを行動に変えるべきだ。あくまで、私はそう考えている。

 

口さえあれば何とだって語れるのだし、言葉を知っていれば、どのようにだって記せるのである。

本気でなんとかしたいと思えば、人は祈る前に、行動をしているはずだ。

 

止むに止まれず、体が動くはずなのだ。

 

結局、安全圏でやいのやいの語ったところで、スピスピキラキラ祈りを捧げた所で腹はふくれないし、毛布は出てこない、それが現実である。

 

祈りイベントなどは正直、自慰行為にしか過ぎないと私は思っている。

集団で清らかな自分たちを見せつけあう自慰行為だと考えてみれば、そのおぞましさに震えがくる。

 

まあ、趣味に口出ししすぎるのもアレなのだが、自慰行為的な祈りの後始末をしている人々もいる事を忘れずにいて欲しい。

 

専門家に任せておけばいいのになあと、私は遠くから眺めるだけである。

 

それはそうと。

 

私は趣味でもなんでも自分で決めた事は何とかかんとかやり通したいと思っている。

 

仕事と学びの千本ノックをこなしている真っ最中であるが、体にガタがきてしまい、祈りで何とかなるなら祈ってやるのにな、と思う通りにならない自分の体に腹を立てている。

 

どの道どうにもならないので渋々、学び側を調整するしかないなと嘆息する。

 

思い通りにならない現実はさておき、祈りで神経痛やら胃炎やらが治ってたまるかと思いながら病院に整体にと対処療法に勤しむのみである。

 

祈りなんて、そんなもんだ。

 

無意味だとは思わない。

 

だが、この現代、祈りよりも遥かに誰かを幸せにする方法や、助ける方法があるのだ。

なぜそちらを選択しないのか、不思議でならない。

 

龍が見えようが、祈寝をしようが、他人の感情が分かろうが、実際に行動が伴わなければ、現実が変わらなければそれは単なる白昼夢と変わらないのだ。

 

特別な事など、何もない。

 

まあ、祈る事しか出来ないこともあるのだが、それは人事という人事を尽くした後のお話。

 

キラキラハッピー宇宙万歳しようが、神に祈りを捧げようが、一番大切なのは思いやりや、優しさを実際に形にしていく事である。

 

良き選択を、良き行動を。

時間は限りなく前に進む蓋然性が高いのだから。

 

今日も今日とて千本ノック頑張りまーす。