視点を固定化させる必要性は無い

何故か日本人の多くと会話していると、視点の切り替えが苦手で、一貫している必要があると信仰(考えではなく、もう信仰であると思う。)している方が多いと感じる。

 

ディベートの授業では、自分の思想云々ではなく、あなたは賛成派、あなたは反対派のように振り分けて行われる事があるのだが、それは視点の切り替えに非常に役立つなと思うし、自分と違う思想の人々の根底を考えるのに役立つと思う。

 

やはり、対話の授業が必要だよなあと感じる。

 

終始一貫的な美意識があるのだろうが、それは正直言って今の時代にはナンセンスである。

 

加速度がついて目まぐるしく変化していくこの時代に、一年前と同じ価値観を保持し続けるのはよろしく無い。

 

三年前とスマホの普及率は同じか?

メイクは?ファッションは?

それらの変化スピードは?

細分化されているとはいえ、私は同じだとは思えない。

 

そこでいつも同一視点、同一意見である必要性は薄れていると思うし、

多角的に物事を捉える力が今こそ必要だと思う。

 

大抵の場合、前提条件は記されない事が多い。

 

だから相手がどんな前提条件と立場で語っているのか考える事が大切だ。

 

視点は固定化する必要は無いし、意見が変わることもあるだろう。

出来れば周囲に理解されるよう説明する事が望ましいとは思うけれども。

 

前提条件が違えば語る言葉が変わることもあるし、意見が変わる事もある。

 

その時にいちいち、言っている事が違うじゃ無いかと語る人がでてくるのだろうか。だとしたら、そう言ってくる人間は狭量で浅慮な人だと思う。

 

人の成長には異なる意見が必要だし、それを受け入れる度量が必要なのだから。

 

日本が外交が下手くそだと言われる理由の一つがこの各国の思惑や利益を想像し、自分達の意見と擦り合わせ、落とし所を見つけるという事が苦手で、一貫性を美徳とする国民性にあると思う。

 

確かにそれは、美徳であると思うのだが。

 

利益を考えるとき、必ずしもその美徳がよく働くとは限らないのだ。

 

最近はなかなかうまくやっているよなあとは思うのだが。

 

snsを見ればその国民性が良くない方向に発揮されているよなあと苦笑せざるを得ない。

 

自分と異なる意見に対して、私はこう思うと主張する事自体は悪いとは思わないのだが、言いっ放しだったり、

 

そもそも相手の真意をつかんでおらず、表面的な言葉のみを捉えて、私はこう思う!と語っているだけであったりする。

 

まあ、それでも自分の意見が無いよりは悪くはないのだけれども。

 

対話するには程遠い、と思う。

 

謎の自尊心の高さと、一貫性を美徳とする性質は、対話する気力を削ぐのに素晴らしいし、相応しいのだから。