メトロノームと不協和音

身も蓋もない事を言ってしまえば、赤の他人にアドバイスを求める悩みなんてつまりその程度なのだ。

そんなこと言うなと批判が来ることや誤解を承知で言うならば、詰まる所そういった類の問題なのだと思う。

 

重大な人生の岐路に立たされている人や真剣に死を考えるほど深い絶望を抱えている人

そんな人達はごく近しい人々の深い愛情や、奇跡的な状況の好転無しには救われないだろう。

 

だが、

 

赤の他人だった人が自分のためにほんの少し親身になってくれた、それが嬉しいのだと思う。

 

赤の他人だった人が、自分の思いに共感し、感情を震わせるのが、嬉しいのだと思う。

 

私はそんな人の弱さ脆さは愛しいものだと思う。

 

たとえ、親身であろうとも、共感されようとも、現実がちっとも変わらないのだとしても、誰かの優しさや心に触れるとき、触れ合う時に人は癒されるのだから。驚くほどの喜びや感謝に満たされるのだから。

本当に人は弱いし、脆いな、と思う。だからこそ、愛しさやあわれを感じるのだろうなとも、思う。

 

私が現実的な解決策と一時的な心理的余裕や精神の開放においてどちらが優先度が高いと判断するかと言えば、

現実的な解決策の方が優先度が高いと判断する事が多い。

 

ただ、精神的な余裕や開放が後に動く為に必要なこともあるのだから時と場合によるだろうと思っている。

精神状態やフィジカルの状態に判断は左右されるが、基本的には問題解決の後の精神的余裕の方が私は好ましいと思っているので。

 

まあsns上で求められるのは精神的な開放のほうが多いのだろうなあと思って見ているのだが、何を間違えてしまうのか、それで金を稼ぐものもいれば、現実的に困窮し問題が複雑化していく人々も多い為、なんだかなあと思う。

 

助けを求める時によく考えて欲しいのは、現実的な解決を求めているのか、精神的開放を求めているのか、どちらであるのかと言う事である。

 

キラキラハッピー教祖様や心屋心理教教祖様に現実的解決策を信者様方へ授ける知恵などないことは、彼らの語彙力や文章力、現実社会に爪弾きにされているところからもよくわかる。

 

だが、精神的開放を求めるのであれば、まあ悪くはないのかもしれない。随分と割高だから、私ならば音楽フェスや美術館巡りや美味しいものを食べに行ったり、公的な資格取得の学費にするけれども。

 

精神的開放が現実的解決策を生み出すとは限らない。

 

頭がただのお飾りになっている状態であの界隈と関わる事は、社会から逸脱していく事に繋がるだろう。

 

メトロノームは共鳴し、共振する。

 

本当は互いのテンポがずれて行かねばならない時にまで、同じリズムを刻み続けるのは、自分の人生を放棄する事にならないのだろうか。

 

チューニング中、音程がずれていると雑音のような、一本の糸からたくさんの毛羽立ちが生まれているような、埃っぽい

ザラザラした不快なものにかわるのだが、あの界隈は音程がズレたまま音楽を奏でているような気がしてならない。

 

メトロノームでしっかりリズムを合わせたまま、音程がズレている、そんな感じ。

 

不協和音は音楽を知らないものにも不思議とストレスを与えるのだという。

 

さて、あの界隈の音楽はいつまで続くのだろうか。

 

あなたは現実的解決策で世の中ともう一度チューニングしていく事を選ぶのか、壊れたメトロノームで互いに同じリズムを刻み続ける精神的開放を選ぶのか。

全てはあなたの思い通りに。